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椿  峠



旧椿峠トンネル新椿峠トンネル


1椿峠(三方郡美浜町)

 三方郡美浜町坂尻と同佐柿の境にある標高約60mの峠で、峠名の由来は不明です。

 御岳山(標高549m)から北北西に延びる尾根と天王山(標高331m)の鞍部にあり、丹後街道が越え、今は峠下を椿トンネルが貫通し、国道27号が通っています。

 古来、越前方面から若狭への侵攻に対し天然の要害地となり、峠を見下ろす南東の山上に中世国吉城がありました。

 「太平記」巻36に康安元年(1361)尾張左衛門佐氏頼が討手の大将として、この峠へ攻め向かったことがみえます。

 永禄6年(1563)戦国大名、朝倉氏が若狭攻めをしたとき、この国吉城は主戦場になりました。



2峠下の集落

(1) 坂尻
(美浜町)

 天王山の山麓に位置し、若狭湾の中の織田湾西岸に面した45戸ほどの半農半漁の村で、村名は椿峠の上り口にあたる地形から名付けられたようです。

 山麓にあった約21町の水田は海抜ゼロメートル地帯の低湿地で、冬季、海が荒れると

 高潮で河口がふさがれ水田一面が池となり、古来、機織池と呼ばれ、国吉城の天然の濠になりました。

 ここに機織姫の伝説が伝えられ、池の中にかつては機織姫神社が祀られていたようですが、現在は氏神一言神社に合祀されています。

 海と池の間に広がる景観はミニ天橋立といわれ、岩出鼻の海岸には弘法大師が笠を掛けたという

 笠かけ岩があり、天王山の北端を黒崎と呼び、僧の形をした坊主岩があります。

 「若州国吉騒動記」によれば、永禄11年(1568)8月中旬、朝倉勢が大勢で「坂尻浦」に押し寄せたといわれます。

 文政3年(1820)伊藤正作が山腹に沿って道路を開削するまでは腰越坂が主な街道であったようです。

 明治18年(1885)若越二州の車道開削のとき、道路を拡幅し車馬の往来が自由にできるようになり、以後、国道に昇格、椿峠も同年車道が開削されました。

 昭和39年(1964)椿トンネルが開通し、同44年から3年間にわたり坂尻地区構造改善事業が実施され、機織池と呼ばれた低湿地水田の土地基盤が改良されました。


椿峠旧道美浜町佐柿の町並み


(2) 佐柿
(美浜町)

 御岳山の北西麓に位置し、標高約60mの椿峠は北にある天王山(標高331m)と御岳山(標高549m)の

山裾が出合うところにあり、古くから若狭に入る交通の要衝として重要視された地です。

 中世末から近世初頭にかけて山城が築かれ、東方からの侵攻に備え常国国吉が築城したと伝えられる国吉城がありました。

 柴田勝家の滅亡後、佐柿は木村隼人佐秀晴に与えられたと伝え、「国吉籠城記」によれば

 木村常陸介は佐柿の南北に道をつけ、諸役、地子などを免除して100軒の町をつくったといいます。

 それが北町、横町、南町、殿町、堅(竪)町、野瀬町であり、小規模ながらこの頃から街並みが発達し、今もその名を伝えています。

 文禄3年(1594)以降、木下勝俊の支配下で佐柿には三方郡伝馬が置かれ、佐柿町与兵衛は

 久々子村や松原村の馬借を動員して浦の荷物を敦賀や近江国今津まで運送するよう命じられました。

 慶長5年(1600)入封した京極高次は、重臣多賀越中守を配して国境を固めましたが、寛永11年(1634)酒井忠勝が入封すると陣屋を設けて奉行を置きました。

 陣屋は字旭谷にあり、奉行1、足軽20人が配置され、女留番所も併置されて婦女の出国を取締りました。

 このように佐柿は戦国期、城下町として機能し始め、江戸期の寛文9年(1669)遠敷郡熊川とともに「泊村」に指定され宿場町として機能するようになりました。

 19世紀初頭には丹後街道に面して表家が100軒、裏家が21軒あったといいます。

 明治12年(1879)当村に三方郡役所が開設されましたが、同19年(1886)三方(三方町)へ移転しました。

 また、敦賀警察署佐柿分署も置かれましたが、同20年(1887)三方に移されました。


国吉城祉を望む国吉城跡


(3) 国吉城跡

 御岳山の小尾根が北に走る標高197mの頂上に中世末から近世初頭にかけて山城が築かれ、

東方からの侵攻に備え常国国吉が築城したと伝えられる国吉城がありました。

 戦国期、若狭守護武田氏が分裂し、弱体化しつつあった頃、武田氏重臣粟屋越中守勝久は、

永禄6年〜12年(1563〜1569)の越前守護朝倉氏の再三の攻撃に対し、国吉城に籠城して屈しなかったといいます。

 このとき佐柿村の常国十郎左衛門と杉谷内蔵助も籠城したと伝えられます。

 また、柴田勝家と羽柴秀吉の決戦を目前にした天正11年(1583)2月若狭を領した丹羽長秀も秀吉方として佐柿を防備しています。

 勝家の滅亡後、佐柿は木村隼人佐秀晴に与えられたと伝え、「国吉籠城記」によれば

 木村常陸介定光は佐柿の南北に道をつけ、諸役、地子などを免除して100軒の町をつくったといいます。



主な参考文献

角川地名大辞典18福井県   角川書店
越前・若狭峠のルーツ   上杉喜寿著
越前・若狭歴史街道    上杉喜寿著






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