このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

16箕輪城

日本100名城、16番箕輪城登城、平成19年7月16日登城   

 箕輪城といえば長野氏の居城、しっかりと城跡として整備されていて、なかなか見ごたえのある場所でした。ただスタンプが駐車場脇に放置されるように置いてあったのが気になりましたが。
 車で行く場合は、二の丸まで入っていけるので、お気楽に行くことが出来ます。
 しかしきちんと見て回るには、それなりの時間が必要です。今回は1時間ほどでざっと見て回ったのですが、もう一回1日がかりで行きたいと思います


 箕輪城は1512年(永正9年)に、当地の豪族長野業尚によって築かれたと言われている。
 長野氏は関東管領山内上杉家の重臣として、武田・北条らとの戦に活躍していた。上杉憲政が越後へ亡命した後も上杉方として残り、北条氏、武田氏、との争いが絶えなかった。
 長野業正の時代には箕輪衆束ね、長野氏全盛時代を築いた、また、武田信玄の侵攻に対しても屈せず箕輪城をしっかりと守りぬいていた。
 長野 業正が箕輪城で病死につけこみ、武田信玄は再び西上野への侵攻を開始し、1566年(永禄9年)武田軍は箕輪城への総攻撃を仕掛け、遂に落城し業盛は自刃して果てた。
 武田時代の箕輪城は上野経営の拠点と位置づけられ、有力家臣真田幸隆(幸綱)などが城代となっている。武田氏滅亡後は北条氏邦が侵攻したものの、織田信長の家臣・滝川一益により追われ、さらに、同年、織田信長が本能寺の変で倒れると、北条氏直・氏邦の大軍が上野国に侵攻、と箕輪城をめぐっては目まぐるしく変化していた。
 1590年(天正18年) 豊臣秀吉の小田原攻めにより、箕輪城は豊臣方の前田利家・上杉景勝連合軍の攻撃により開城した。同年、徳川家康が関東に入封し、箕輪城は12万石をもって井伊直政に与えられた。井伊直政は箕輪城を近代城郭に改造したものの、1598年(慶長3年)高崎城に移封され、箕輪城は廃城となった。




箕輪城跡の碑箕輪城跡の図
御前曲輪掘り切り
土橋と堀切


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