このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
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天正四年(1576)、丹羽長秀を普請奉行として着工し、天正七年(1579)に完成した。「天下普請」として東海・北陸・近畿にいる配下の武将を総動員し、さらに京都・奈良・堺の名工たちを集めて建築された。五層七重の天主閣を擁し、城には総見寺や羽柴秀吉や前田利家などの家臣の屋敷が連なっていた。
岐阜より安土城に移った信長は、甲斐の武田氏を滅ぼし中国の毛利氏を攻めるなど、天下統一・天下布武に向けてまい進していたが、天正十年(1582)六月二日、京都本能寺にて明智光秀の謀反を受け自刃し果てることとなった。安土城に残った女房達は、家臣の蒲生賢秀により日野城に逃れ、安土城には光秀の女婿ある、明智秀満が入った。しかし山崎合戦で明智光秀が羽柴秀吉に敗れたことにより、明智秀満は安土城を捨てて退散した。この後、安土城は炎上するが、炎上にいたる経緯は謎のままである。
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安土城天守閣の一部復元(安土城天守 信長の館) |
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天守閣跡からの眺め |
総見寺
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