このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

56竹田城

 日本100名城 56番竹田城登城 平成20年7月26日 竹田城に登城してきました。天空の城の異名を持つだけの素晴らしい城跡でした。縄張りが虎が臥せているように見えることから、別名虎臥城と言われています。縄張りは、南北約400m、東西約100m。天守台をほぼ中央に配置し、本丸、二の丸、三の丸、南二の丸が連郭式に配され、北千畳と南千畳を双翼とし、天守台北西部に花屋敷と称する一郭がある。廃城後約400年を経ているが、石垣がほぼそのままの状態で残っており、現存する山城として日本屈指の規模となっている。


 但馬国守護大名の山名持豊によって、出石此隅山城の出城として築かれた。 山名四天王の太田垣氏が竹田城を守った。応仁の乱によって東軍の細川氏の軍勢の侵略を受けるたものの、太田垣氏らの軍勢が東軍の細川氏の軍勢を夜久野が原で撃退した。
 羽柴秀吉による、1569年(永禄12年)および1577年(天正5年)の但馬征伐により落城。羽柴秀吉の弟羽柴秀長が城代となるが、羽柴秀長は出石の有子山城主になったため、羽柴秀長の武将である桑山重晴が竹田城主となった。その後、桑山重晴は和歌山城に転封となり、替わって龍野城主赤松広秀が城主となる。当初は土塁造りの城郭であったが羽柴秀長から赤松広秀の城主時代における改修工事により、総石垣造りの近世城郭として生まれ変わり、廃城間近に現在の壮大な姿となった。
 赤松広秀は関ヶ原合戦では西軍に属し、たものの。徳川方の亀井茲矩の誘いで鳥取城攻めに加わって落城させるものの、城下の大火の責めを負い家康の命によって、慶長5年(1600年)鳥取真教寺にて切腹。竹田城は廃城となった。

 



天守台より見る

天守台

石垣



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