このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

81松山城

日本100名城 81番松山城登城 平成20年7月21日 松山城に登城してきました。

 日本で12か所しか残っていない、江戸時代以前に建造された天守を有する城郭(現存天守)の1つで、大天守と小天守・南隅櫓・北隅櫓を渡り櫓(廊下)で結んだ連立式の造りとなっています。
 天守は天明4年(1784)元旦に落雷で焼失し、文政3年(1820)から再建に着手し、安政元年(1854)に完成しました。昭和に入り小天守及びその他の櫓が戦災などのため焼失しましたが、総木造による復元が進められました。 


 伊予正木城主、加藤嘉明は、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いにおいて、東軍として戦い、戦功により20万石に加増される。
 加藤嘉明は、道後平野にある勝山に城郭を築き、慶長8年(1603)に加藤嘉明は居を新城下に移し、松山という名称が公にされました。松山城は寛永4年(1627)になってようやく完成します。完成当時は5重の天守でした。
 加藤嘉明は、寛永4年(1627)に会津へ転封となり、出羽上の山城から、蒲生氏郷の孫忠知が入国。さらに築城を継続し、二之丸の築造を完成しました。
 しかしながら、蒲生忠知は、寛永11年8月参勤交代の途中病没し、嗣子がいないことで蒲生家は断絶となりました。
 蒲生家の後に、桑名城主松平定行が、松山藩15万石の藩主に封じられ、その後松平家が14代世襲して明治維新に至りました。

 




松山城天守


巽櫓大手門跡

太鼓櫓

戸無門太鼓櫓(内から)


大天守 一の門南櫓 二の門南櫓








天守閣よりの眺め


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