このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

遊園昔話「向ヶ丘稲荷神社のお話」


センタープラザからマーガレットアベニューをこえた「楽焼き」のとなりにあったのが「向ヶ丘稲荷神社」です。
楽焼きに参加したことがある方は大変覚えていると思います(下記の写真を見れば分かりますね)。
今回の特集は、この「向ヶ丘稲荷神社」のお話です。

神社の由来

開園当初の昭和2年、正門から杉山道(現、向ヶ丘ボール付近)を登った中腹
の曲り角に湧水がありました。
園内の居住者は、それを飲料水として使っていました。
(当時、園内の出店者のほとんどは、お店を住居に使っていたとのことです)

初夏のある夜、水をくみにいった某氏は、狐の親子が水を飲んでいるのを見つ
けました。そして、持っていた天秤棒で撲殺して、食べてしまったのです。
そのためか、間もなく某氏は変死してしまいました。
そして、あれは狐の崇りだという噂がひろがりました。
また、夜になると、悲しそうな狐の啼き声が聞こえてくるという評判も立ってしま
ったのです。
園内居住者は、何とか狐の供養をしなくてはと相談していました。
その時、たまたま近くに住む方が転居するにあたり、邸内にまつってあった稲荷
の社の処置に苦労しているという話を聞いたのです。
園内住居者はこれを勧請(かんじょう・移して祭る)して供養することに相談、
決断いたしました。
そして、枡形山戸隠不動尊(現、川崎市多摩区)住職の紹介でこれを譲り受けて、
「た(
へんに乇)木老只真天」の神号をつけてもらい、向ヶ丘稲荷として安置しま
した。昭和8年2月22日のことです。


その後の歴史

以後、22日を「祭祀(さいし・祭典)の日」として、毎月祭事を行いました。

①昭和12年には各茶店が幟(のぼり)2本ずつを奉納して、騒動の張本人の某氏
 の供養も併せて行ないました。
②戦時中は毎月祭祀を行うのが困難になりました。そして、初午・正月・5月・9月
 と簡略化、それでも祭りは絶えることなく行われました。
③昭和31年には太鼓を奉納。
④昭和34年には遊園園長のお世話により、遊園から幟10本の奉納を受けました。
⑤昭和35年頃から、来園者のいたずらなどで、破損が著しくなりました。
 そして、会社側(小田急)の了解を得て、今の場所に移築されました。
 (当初は、今の場所よりやや奥に安置されていました)
⑥昭和53年会社側の多大な後援のもとに盛大な初午祭が行われ、多くの参拝者
 でにぎわいました。

⑦閉園まで、毎年2月の上旬頃に遊園地の催事「初午祭」として神事を行い、
来園者に、甘酒・つきたてのお餅等を無料で振舞わられていました。 


                          (向ヶ丘遊園小史より~)

戦前の向ヶ丘稲荷神社の写真

昭和38年2月の初午祭の様子

昭和37年の防衛博をひかえ、工事中の向ヶ丘稲荷神社

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください