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昭和56年、20歳で専門学校(2年過程)を卒業した私は、東京の大手企業に就職した。
しかし、2年2ヶ月で、その会社を退職。
専門学校出身の私の給料は、他の一流大学の同期入社に比べて、異常に安かった。
残業1ヶ月200時間を越える私の努力は、単なる時間の無駄となるであろう。
また、当然のことながら出世も見込めない。
父の教えにより、努力は惜しまない性格の私だが、
思い切って、退職を決断したのだった。

私は、少々の貯金を持って、北海道に旅にでることにした。
久しぶりの自由、速やかに求職活動をするには、とても惜しい気がしたのだ。
一ヶ月程、北海道を旅をして、心をリフレッシュしから求職活動をしよう。
そんな単純な理由であった。

周遊券を購入し、急行八甲田で青森入り。
当時は、青函連絡船の時代である。
函館から、道内旅行を開始。
お金も少なく、ユースホステルや夜行列車で過ごした。

ところが、観光シーズン外れのユースホステルには、とても面白い宿泊者が多かったのだ。
みんな、北海道が大好きである。
あまり、将来のことも考えてないようだ。
金がなくても、気持ちに余裕がある。
誰でも、すぐ仲良くなれる。

当時の私は、
特に北海道が好きなわけではない。
帰って、休職活動をしなければ、と心の奥で考えている。
金が少ないので、気分がすぐれない。
あまり、会話が旨くない。ネタが少ない。

当然のことながら、両者の出逢いは、面白い宿泊者が、私を飲み込むことになり、
私は、その後2年という時間を北海道で過ごすことになった。

そのことは、私の人生の大きな分岐点になる。

半年程、道内を放浪旅行。
放浪に疲れた私は、札幌にアパートを借りることにした。
その頃の私は、北海道が何よりも好きな人間に生まれ変わっていた。
札幌で、のんびりとしながら、仕事をゆっくりと探せばいいのだ。
あせる必要もない。

札幌では、周遊券が手に入ると道内を旅行した。
勉強もちょっとした、仕事もちょっとした。
しかし、最後にはお金が無くなった。

ここからが、私と斜里町との出逢いに繋がっていく。

札幌在住が1年近くなった8月上旬、周遊券を手にした私は、知床に旅立つことにした。
周遊券の期限は、5日である。

お金を節約しながらの旅行のため、極力宿泊を避け、夜行急行列車が主流である。
札幌から、急行大雪・網走行の夜行に乗車し、旅が始まった。
網走駅から釧網本線で、斜里駅(現・知床斜里駅)に到着。
そこからは、ヒッチハイクでウトロに入った。
岩尾別ユースホステルなどに宿をとりながら、
要領良く、車の旅人を見つけては、車に便乗。
既に、私の心も行動も、完全にたくましさを身につけていた。

知床大橋・カムイワッカの滝・男の涙(今は入山禁止)・乙女の涙等々、
ひととおり、見て回ることができた。

斜里駅に戻った私は、遠くに見える綺麗な山(斜里岳)が気になり、
それを目指して、道をテクテクと歩き出した。
とても景色がいい、気分爽快だ。
5キロ程歩くと、近くに大きな工場が見えてきた。
それが、ホクレンのビート工場(精糖工場)であった。

のども渇いたので、ホクレンの正門から入り、受付の警備員さんのところに行く。
その時に出逢った、受付の警備員「Hさん」。
飲み物をいただいた私は、
私の生い立ち、旅人であること、札幌に住んでいること、お金がないこと
色々と話した。数時間、お邪魔してしまった。

その時、「Hさん」の口から、
「9月下旬から、この工場でビートから砂糖を作る行程が始まる。
来年の3月までの約6ヶ月だが、お金がないのなら、こちらに来て働けばいい。
そして、東京に帰ればいい。頑張る気があるのなら紹介するよ」

大変ありがたい話であった。
出逢ったばかりなのに、私を信用して、こんなに優しい言葉をかけていただき、とても感動した。
私は、Hさんの連絡先を聞いて、札幌に戻った。

当時の私のホクレン行きは、選択地のひとつであり、
そのまま、東京に帰ることもできたのだ。

しかし、北海道大好き人間として生まれ変わった私は、斜里に行くことを決断した。
急遽、札幌のアパートの退去手続きに入り、「Hさん」とも連絡、
旅仲間の二人も行きたいとのことなので、無理にHさんに相談、
合計三人で、斜里町のビート工場に半年間の旅にでたのである。

はじまり

斜里町との最初の出逢い

中斜里にいる間の私たちは、全てをHさんにお世話になった。

実際に私達の働く場となったのは、ホクレンの下請会社であるM社という会社。
仕事の内容は、以下のとおりである。

秋に収穫されたビートは、ホクレンの精糖工場に次々に運び込まれる。
ビートから糖分を採り、その糖分は砂糖(グラニュー糖)となり、
糖分を採ったあとのビートカスは、生ペレットと呼ばれ、牛の餌となる。
しかし、生ペレットは保管がきかないので、それを乾燥加工し、
爆竹程の大きさの、固形ペレットとなる。
それが、保管も効く牛の餌である(ペットフードのようなもの)。
工場は、24時間稼動、年明けの3月までフル稼働である。

私達の担当した職場は、
固形となったペレットを封入し、倉庫の端にフォークリフトで積み上げる
という単純な仕事であった。
ところがそれが大変な重労働・そして寒さとの戦いであった。

工場は、24時間稼動のため、固形ペレツトが次々と出来上がって来る。
休めば、溜まる。おっかけっこである。
ペレットは50キロ袋に梱包され、次々とベルトコンベアを5メートルほどの間隔で流れてくる。
それを、パレットの上に一段5袋で積み上げていき、パレットが一杯となると
リフトで倉庫の端に積み上げに行く。
倉庫の中は、休憩室を除き、外の温度とほとんど同じ。
これを、1日12時間の2交代で約半年間戦うのだ。
日勤6日→夜勤6日→1日休み。

当然のことながら、1ヶ月ほどで、私のなまった体は、
気持ちよく、ダイエットとなった。

寮も大広間の団体生活、真ん中に大きなストーブがあり、
それを囲むように、カーテンの仕切り一枚の、2畳ほどの広さの生活であった。
プライベートという言葉はここの生活には無い。

とても、辛かった。
そして、とても寒かった。
一時は、寒冷蕁麻疹(かんれいじんましん)なんていう病気にもなった。
何しろ、道東の冬の生活は初めてである。
流氷が接岸すると−20度を下ることもある。
心の支えは、目の前に見える雄大な斜里岳とHさんの暖かい心であった。

しかし、私達は紹介であるという身分、
決して、投げ出そうとも思わなかった。
いや、思ってもできなかったのである。

私達より高齢のオジサン達も、同じように働いているのだ。
もしかしたら、私達3人が来なければ、地元の方が働けたのかもしれない。
そう思うと、悲しい気持ちになった。

そして、辛い半年の生活が終わりを向えた。
網走職安で雇用保険手続きをとり、
Hさんとお別れの晩餐をし、同僚のおじさん達にも再会を約し、
半年間で蓄えた、約70万円を握り締めて、私は懐かしき札幌へと向かった。

札幌で友人宅に居候しながら、半年間の時間を取り戻すべき、自由な生活。
そして、お金もあっさりとなくなった。

両親の「そろそろ帰ってこい」の一言で、
私は、北海道に必ず戻ると心に誓い、東京に戻った。
これは、故郷を離れる時の気持ちであった。
私にとって、初めてのことであり、それは24歳の春であった。

ビート工場での生活

東京に戻った私は、缶製作工場の夜勤生活(アルバイト)をしながら、求職活動を開始した。
中斜里の仕事に比べれば、何をやっても楽なものである。

数ヶ月の求職活動の結果、北海道企業の東京事務所に勤めることが決まった。
上手くいけば、堂々と、北海道に転勤になるかもしれない。
そんな下心が私にはあったのだ。

翌年、北海道が好きな仲間の女性と、結婚をすることになった。
25歳、ちょっと早い気がするが、面倒くさいことは早めに終わらしておこう。
北海道好き同士、毎年、夫婦で北海道に行くこともできる。

そして、毎年幾度と北海道にかよう夫婦生活が始まった。
毎年、Hさんに逢いに、斜里岳の雄大な姿に逢いに。

人間の心は不思議なものである。
辛い想い出は、懐かしさへと変化し、そして故郷の存在となる。

第一子が出来るまでの6年間、その生活は続き、
31歳で第一子、34歳で第二子が誕生。
夫婦二人の北海道旅行から、家族三人の北海道旅行、
そして家族四人の北海道旅行となった。
哀れな我家の子供二人は、北海道にしか行ったことのない子として育った。

私、36歳。子供二人が小学生となると、北海道旅行も金銭的に大変苦しくなってきた。
私の場合、夏休みはその初日の一便の飛行機で道内入り、
夏休み終日の最終便で戻ってくることが、愛する北海道に対する礼儀だと勝手に思いこんでいる。
基本的には、8泊9日となるのだが、問題は宿泊代金。
子供も小学生となると、無料とはいかず、家族四人8泊の宿泊代は多額であった。

そこで、キャンプの北海道旅行に切り替えることとしたが、
ある年の夏は、8泊キャンプの内、7泊が雨に見舞われた。
寒い、ビショビショ、移動も大変、
子供達もキャンプは好きでないようだ。

そして考えた結果、毎回の目的地である中斜里に家を買うことを決断し、
早速、Hさんに相談。
条件は、極力安く、どんなに古くてもかまわない。でも、10年は使えるような家。

38歳で購入したのが、中斜里の辛い想い出の地・ホクレン精糖工場近くの家であった。
土地150坪、昭和43年築木製モルタル・傾き多し・トイレは汲み取り式、
外壁ボロボロだが、雨漏りはない。
金額は、100万円であった。

私の計算では、5年間使えば宿泊代の元は充分とれる計算。
それでも、数々の北海道旅行によりまとめて支払う蓄えもなく、
全額が銀行借入となってしまった。

ふと思うことがある。
現在は、神奈川に在住だが、住家は借家である。
中斜里にオンボロながら家を持っている。
とてもアンバランスで、不思議な気分である。

忘れられない斜里へ、東京からかよい続ける生活

中斜里が旅行の起点に

家具は、網走のリサイクルショップで購入して揃えた。
中古品は、安いものである。また、古い家には古い家具がよく似合う。
ストーブは、前の方が置いていってくれた。
初年度は、布団も用意できずに、斜里の西屋寝具店で布団を借りた。
翌年からは、湿気対策のポリエステル100%の安い布団を大量購入。

そして、中斜里が起点となる北海道旅行が始まった。
道内の出入は、女満別空港・中標津空港・釧路空港となった。

空港に到着すると、真っ直ぐと中斜里に向かう。
姿を変化させながら見えてくる斜里岳が美しい。
最初に水の確保。来運神社にポリタンクで飲料水を汲みにいく。
水道はあるのだが、暫く使っていないと配管のサビがでて、とても飲む気にならない。

一日かけて家の掃除。
翌日は、また一日かけて庭の草刈(不在時は隣の方にご迷惑をかけている)。

夏はゆっくり中斜里で斜里岳を拝む。
これが、私の最高の楽しみである。

当然のことながら、中斜里にいることで満足してしまい、
出不精となり、車ででかけても日帰りが多くなる。
正直、長い北海道旅行で行きたいと思うところがない。
なんて、幸せなことだろうか。

夏の観光シーズン、人も多い知床半島に興味がないので、あまり行かない。
贅沢な話である。

お風呂も古くて使えないため、
家族で、毎日近くの(60キロ圏内)色々な温泉に行くことになる。
これも、大変幸せなことである。

夏は必ず一回、斜里の浜でバーベキューを行う。
食材は、「スーパー・みたに」で海産物を調達。
天気の良い日を選ぶ、そうすれば遠くに海に浮かぶ美しい知床連山が見えるのだ。

Hさんの家でも、ホルモンをつついて宴会。
ホルモンは塩コショウが美味しい。そして、二日酔い。
本当にお世話になっている。

斜里のお祭り・清里のお祭り・川湯のお祭り。
夏は楽しいお祭りシーズン。8月の下旬は、お祭りが忙しい。

帰る前の日は、お世話になった家の大掃除。
暫く逢えないと思うと、寂しい気分となる。
特に、帰る日に斜里岳が見えないと、とても憂鬱である。

最後に鍵を閉めて玄関前で家族の記念撮影をする。
本当に幸せだ。
斜里の町中に・・・
44歳、計画性のない、私の悪い病気が再発してしまった。
中斜里を中心としていて楽しんでいた生活に、もうひとつ刺激が欲しくなったのだ。
刺激が欲しいと言うよりは、「斜里に対して我慢がきかない性格」という表現が正しい。

前から知床斜里駅の方に、国鉄精算事業団が売りに出している土地があることは、気にはしていた。
それが、地形が良くないことから、不人気であり、
私のサラリーマン所得で、何とか借金が可能な範囲に値段が落ちてきたのである。

斜里を故郷だと思っている私にとって、当然、我慢ができるはずがない。
はっきり言って、不要であると思われる。
土地を買っても、上物がなくては利用価値が見つからない。
中斜里の家を購入したレベルとは違い、多額の借入金となる。
でも、案の定、我慢ができない。

家族の反対をには耳を傾けず、
妻を保証人とし、全額借入金で購入。
月々の返済も多額、完済は、52歳の予定。

そして結果は、夏に草刈をする土地がひとつ増えただけである。

私は、長年の間お世話になっているこの地に、何か貢献をすることが、
最後の使命であり、礼儀であると思っている。
その数倍もの憩いを斜里よりいただいているのだから。

現在の斜里生活と、新たなる決意

平成19年7月、道央に出張に行った途中、3日休みをもらい、
札幌から夜行バスに乗車し、斜里に向かった。
目的は、夏に家族で行く前の中斜里宅の掃除である。
(本当は、とても斜里岳が見たくなったのであるが・・・)

早朝、斜里近くとなったバスの車窓から斜里岳が見えてきた。
天気も良く、最高の眺めと気分である。
その時に改めて心に刻んだことは、私は本当に斜里が好きだということだ。

到着した日に、家の掃除を終わらせ、一泊し、
翌晩、札幌に向かう夜行バスに乗った。
帰りの航空券が千歳空港だったため、無理に札幌に戻る必要があった。

斜里から離れる夜行バスの寂しさは、忘れることができない。
飛行機であったら、一気に離れることができるが、バスでは、真綿で首を絞められる思いであった。

8月の下旬は、家族四人で中斜里で過ごしたのだが、そろそろ限界を感じた。
子供も大きくなると、親と行動したくなくなる。
我が家もそういう時期が訪れたのだ。
寂しいが、子離れできない親にはなりたくない。

今後は、ひとりで斜里に通う生活を築かなくてはならないと決意した。
46歳、健康である限り、私の心は変わらないだろう。
後は、余生を、ただ目的に向かって漕ぎ続けるだけである。

その時に初めて気がついたことがある。
私としては、精一杯家族で斜里に通ったつもりだが、
まだ、斜里の居候の域を超えていなかった、ということである。

本当に斜里が好きであるならば、暇さえあれば斜里に住まなくてはならない。
もっと、斜里に行かなくては!できれば、毎月でも。

ひとりで斜里に向かうことは、家族の旅行に比べて、大変に楽である。
2ヶ月前に安い航空券を予約し、家庭を少々無視し、
ひとりでふらりと向かうだけである。

実は私には、最大の欠点がある。
それは、「生れて一度も運転免許証を持ったことがない」ということである。
家族旅行では、いつも妻の運転だった。
北海道生活では、致命的である。

だから私は、いつも本数は少ないが、要領よく「釧網本線」を使っている。
中斜里から斜里に向かう時は、釧網本線、天気の良い時は歩くこともある。

温泉に入りたい時は、朝7時32分発の釧路行に乗車、
川湯温泉の公衆浴場に入り、川湯温泉発10時36分の汽車で戻ってくる。
これを過ぎると、川湯温泉発17時22分発まで、戻りの汽車がない。

私の大事な脚である釧網本線は、可愛くてたまらない、そして心から感謝している。

夜の中斜里の家は、斜里岳も見えず、ガスを入れていないので食事も作れず、
寂しくて過ごすことができない。

だから、夕方から斜里の町に行き、食事を済まし、一杯飲んで帰宅する。
それも、苦にならない。人間、ひとりでも何とかなるものだと思う。

以上の行動範囲だけでも、私の生活は充分である。
網走・北見・釧路には行く必要がない。斜里において、全てが十二分に満足できるのだ。

HP「斜里町ありがとう!」の開設について

内地在住の人間が、斜里町をテーマとしたHPを作ることは大変難しい話です。
しかしながら、私は頻繁に斜里町に行くことを決することによって、
HPを作ることが可能では?と考えました。

このHPの目的は、斜里町の方々に捧げることを目的としており、
斜里町に感謝の気持ちを持って、製作しております。

斜里町をより住みやすくするには、人口・観光客・仕事等の増加が、課題と思っています。

ひとりでも、多くの方に斜里町の良さを紹介したい、それがHPの最大の目的です。

<文章が日記風 となっております。読みにくいことをお許しください>

斜里の町・釧網本線の駅等で、カメラを持ったメタボ体型の
メガネ男が歩いていたら、それが私です。

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