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私の旅日記
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2010年
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旧東海道
赤坂宿
〜芭蕉の句碑〜
旧東海道赤坂宿を行く。
仁治3年(1242年)8月、『東関紀行』の作者は鎌倉へ下る途中、赤坂の宿を通る。
矢矧といふ所を立て、宮路山越え過ぐるほどに、赤坂 と云宿有。爰に有ける女ゆへ
(ゑ)
に、大江定基が家を出けるもあはれ也。人の発心する道、其縁一にあらねども、あかぬ別れをお
(を)
しみし迷ひの心をしもしるべにて、まことの道にを
(お)
もむきけん、有難くおぼゆ。
別れ路に茂りも果で葛の葉のいかでかあらぬかたにかへりし
『東関紀行』
赤坂宿は
東海道
36番目の宿場である。
「よらまいかん」があった。
休憩所である。
旅籠 大橋屋
本陣・脇本陣以外の武士や庶民などの宿泊施設を旅籠屋という。
享保18年(1733年)の赤坂宿は、町裏を合わせて家数400軒のうち、83軒が旅籠屋であった。
大橋屋は、旧屋号を鯉屋といい、正徳6年(1716年)の建築といわれる。赤坂宿の旅籠屋の中では、大旅籠に属し、間口9間、奥行23間ほどであった。入り口の見世間・階段・二階の部屋は往時の様子を留める。
豊川市教育委員会
本陣跡
本陣は、参勤交代の大名・幕府の役人・公家などが休泊するところで、一般の旅籠屋とは違い。門・玄関・式台・上段の間などを備えることが許されていた。
赤坂宿の本陣は、宝永8年(1711年)の町並図によると、4軒あった。そのうち松平彦十郎家は、江戸時代の初期から本陣を務め、人馬継ぎ立てを行う問屋も兼ねていた。
宝永8年の間取り図によると、間口17間半、奥行き28間、座敷通り422畳で、門・玄関付の立派なものであった。
豊川市教育委員会
関川神社
関川神社に芭蕉の句碑があった。
夏の月御油よりいてゝ赤坂や
出典は『
俳諧
向之岡』(不卜編)。
延宝4年(1676年)6月、東海道を上る時に詠まれた句。
芭蕉33歳の時である。
明治26年(1893年)12月、芭蕉の二百回忌に花井汲古再建。月之本素水書。
手前に旧碑があった。
享和元年(1801年)3月4日、大田南畝は大坂銅座に赴任する旅で赤坂宿に泊まっている。
国府町を過て、御油なはての松原にかゝる。左のかたの松に桜のやどり木あり。まないた橋をわたれば、御油の宿なり。問屋場に御秤頂戴所といへる札あり。御油より赤坂までは十六町にして、一宿のごとし。宿に遊女多し。おなじ宿なれど御油はいやしく、赤坂はよろし。
『改元紀行』
昭和10年(1936年)11月3日、
与謝野晶子
は赤坂宿を訪れている。
町古りて松竝木にもことならぬ東海道の赤坂の宿
『白桜集』(尾参詠草)
御油の松並木が続く。
御油
淋しさはどちら向ても菫かな
菊明
『
俳諧
五十三駅』
(安袋編)
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