このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
私の旅日記
〜
2012年
〜
有松
〜淡淡の句碑〜
旧
東海道
の有松の街を歩いてみる。
有松の家並み
慶長13年(1608年)、有松絞りの開祖竹田賞九郎はじめ8名の知多阿久比町より移住者によって有松の町は生まれた。
古い家並みは続く。
享和元年(1801年)3月5日、大田南畝は大坂銅座に赴任する旅で「有松絞り」のことを書いている。
有松村の人家は蔵づくりにして絞り染多し。
(童の浴衣に竹の虎の形付たる、又は赤さいで白手拭に)
青く絞り染たるあり。鳴海の宿にいり、鳴海の神社、笠寺観音の前をも過て、宮の駅桔梗屋喜七がもとにやどる。
『改元紀行』
有松絞り
井桁屋
(HP)
それよりあなふ村、落合むらをすぎゆきて、有松にいたり見れば、名にしおふ絞の名物、いろいろの染地家ごとにつるし、かざりたてゝあきなふ。兩かはの見せより、旅人を見かけて、「おはいり、おはいり。あなたおはいり。名物有松しぼりおめしなされ。サアサアこれへこれへ。おはいり、おはいり。
弥次
「ヱゝやかましいやつらだ
ほしいもの有まつ染よ人の身のあぶらしぼりし金にかへても
『東海道中膝栗毛』
街外れに淡淡の句碑があった。
有松や家の中なるふぢのは那
平成16年(2004年)12月、
株式会社 近喜
近藤好彦建立。
淡淡
姓は松木氏。幼名熊之助、のちに伝七。大坂西横堀に生まれ、20歳元禄初年(1688年)のころ江戸に出て芭蕉から呂国の号を受けた。芭蕉没後の元禄7年(1694年)不角について因角と改め、しばらく江戸に滞在した。
宝永の頃に江戸を去り、京都に戻り門戸を張りかなりの名声を博した。
晩年大阪に移住し、江戸堀に聴槿庵を結び百川朝水と号し、堺にも移ったが、再び大阪に戻り、身終わるまで島の内鰻谷に居住した。
宝暦11年(1761年)11月2日、「朝霧や杖で描きし富士の山」の1句を辞世として88歳で没した。
「私の旅日記」
〜
2012年
〜に戻る
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください