このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

私の旅日記2011年

田原城跡〜渡辺崋山〜
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田原市田原町巴江に田原城跡がある。


田原城跡


 田原城は文明12年頃、戸田宗光が渥美半島統一の拠点として築城し、以来70年にわたって栄えたが、今川義元によって攻略され落城した。その後、城主は交代し、慶長6年から戸田尊次が1万石で、寛文4年には1万2千石で三宅康勝が入城し、三宅氏の居城として栄え、明治維新を迎えた。

 田原城は、かつて海が城の周囲に入り込み、入江を形成していたため、その状況が巴(ともえ)文に似ていることから、巴江(はこう)城とも呼ばれている。中世に築かれた城を利用したため、地形・規模などの制約を受けているが、藤田曲輪・本丸・二ノ丸・三ノ丸・出曲輪及び付属する腰曲輪の周囲を、堀によって区画するなど、さまざまな工夫を凝らし、小さいながらも近世の城郭にふさわしい構成を取り入れている。また空堀・土塁など随所に中世城館遺構を残す貴重な城である。

田原市教育委員会

渡辺崋山 は田原藩の家老。通称は登(のぼり)、蘭学者、画家として知られる。

寛政5年(1793年)
9月16日、江戸の田原藩上屋敷で生まれる。

天保3年(1832年)
5月、田原藩の年寄役末席(家老職)に就任。

天保10年(1839年)
5月、北町奉行所に召喚。「蛮社の獄」である。


12月、在所蟄居。

天保12年(1841年)
10月11日、池ノ原宅で自刃。享年49歳。

城宝寺 に墓がある。

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