このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
私の旅日記
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2009年
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弘前城
〜紅葉〜
6年ぶり
に弘前城へ。
三の丸追手門
慶長16年(1611年)、建築。
重要文化財である。
黄葉の見頃である。
落葉の絨毯
南内門
下乗橋と天守
下乗橋から紅葉を見る。
弘前城天守
現存12天守のひとつ。東北地方では唯一のもの。
文化7年(1810年)、本丸辰巳櫓を解体新造したものである。当初の天守は五層で、寛永4年(1627年)に落雷で消失した。
丑虎魯と紅葉
弘前高等学校の文科生だった
太宰治
は弘前城を訪れている。
あれは春の夕暮だつたと記憶してゐるが、弘前高等学校の文科生だつた私は、ひとりで弘前城を訪れ、お城の広場の一隅に立つて、岩木山を眺望したとき、ふと脚下に、夢の町がひつそりと展開してゐるのに気がつき、ぞつとした事がある。私はそれまで、この弘前城を、弘前のまちのはづれに孤立してゐるものだとばかり思つてゐたのだ。けれども、見よ、お城のすぐ下に、私のいままで見た事もない古雅な町が、何百年も昔のままの姿で小さい軒を並べ、息をひそめてひつそりうずくまつてゐたのだ。ああ、こんなところにも町があつた。年少の私は夢を見るやうな気持で思はず深い溜息をもらしたのである。万葉集などによく出て来る「隠沼
(こもりぬ)
」といふやうな感じである。私は、なぜだか、その時、弘前を、津軽を、理解したやうな気がした。
『津輕』
東内門
昭和41年(1966年)10月、
水原秋桜子
は津軽、十和田に回遊。
弘前城 三句
櫓のみ残りし影や菊日和
破蓮
(やれはす)
や城の残せる門四つ
搦手もひらきて菊の鉢ならぶ
『殉教』
弘前市立郷土文学館
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