このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
河東碧梧桐ゆかりの地
さ久ら活計た花屑乃中可ら一枝拾ふ
伊予鉄城南線市役所前下車。
城山公園側に河東碧梧桐の句碑があった。
さ久ら活計た花屑乃中可ら一枝拾ふ
『碧』
に収録。
大正13年(1924年)の句。
碑陰に「昭和七年四月二十九日建立」とある。
河東碧梧桐は松山市千舟町に生まれた。虚子と子規門の双璧で、子規没後、「日本俳句」の選者を継ぎ、やがて非定型自由律の俳句を唱えた。
碧梧桐最初の句碑で、昭和6年松山刑務所(現在県立中央病院)内に、情操教育のため、虚子の句碑とともに建てられたが、昭和28年8月、十七回忌にこの地に移された。
松山市教育委員会
『俳句の里 松山』
昭和35年(1960年)11月29日、山口誓子は碧梧桐の句碑を見ている。
その帰途、城へ無かって市役所の前を通ったとき、広場に立っている碧梧桐の句碑を見た。
さくら活けた花屑の中から一枝拾ふ
青色の、大きな自然石だ。
私は驚いた。昭和十二年に、はじめて松山へ来て、刑務所に案内されたとき、私はこの句碑をその構内で見たからである。そのとき私は、花屑の中からまだ活けられる一枝を拾い出した、というこの自由律俳句は、刑務所にいる人々の救いになったろうと思い、いい場処にいい句碑が立っている、と思ったのである。
それが刑務所から出て、市役所の広場に立っている。驚くのが当然だ。
『句碑をたずねて』
(四国・九州路)
河東碧梧桐ゆかりの地
に戻る
旅のあれこれ
に戻る
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください