このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

村上鬼城の句碑



春雪のとけてぬれたる垣根かな

高崎市柳川町に「高崎ビューホテル」がある。


「高崎ビューホテル」に村上鬼城の句碑があった。


春雪のとけてぬれたる垣根かな

村上鬼城

俳人。江戸に生まれ、幼児高崎に移る。本名荘太郎。11歳で母方の養嗣子となる。若くして耳疾を患い、ために軍人、司法官を志して果たさず、父の職を継いで 高崎裁判所 の代書人となった。 『ホトトギス』の初期より投句し、 正岡子規 の指導を受け、次いで 高浜虚子 に就く。 『ホトトギス』の有力作者となったが、耳疾のため裁判所を辞めさせられ、多くの子女を抱えて貧困と不遇の生活に甘んじ、動物に愛隣の目を注いだ独特の境涯句は大須賀乙字の激賞を受け、乙字編『鬼城句集』(1917年)により一躍俳名があがった。その後愛知県発行の俳誌『山鳩』の選者に迎えられ、浅井啼魚らの尽力で大阪にも鬼城会も発足し、生活もしだいに安定した。句集には同名の『鬼城句集』(1926年)、『続鬼城句集』(1933年)のほか、『鬼城俳句俳論集』(1947年)などがある。

昭和58年4月、高崎ビューホテル開業。

高崎ビューホテルが開業する前に「宇喜代」という料亭があったそうだ。

恐らく鬼城が「宇喜代」を利用した際の句ではないかとのこと。

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