このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

石川啄木ゆかりの地


「啄木寄港の地」記念碑

宮古市光岸地の高台に宮古漁協ビルがある。


宮古漁協ビルの前に「啄木寄港の地」記念碑があった。


   明治四十一年四月六日

 起きて見れば、雨が波のしぶきと共に甲板を洗うて居る。灰色の濃霧が視界を閉ぢて、海は灰色の波を擧げて居る。船は灰色の波にもまれて、木の葉の如く太平洋の中に漂うて居る。

 十時頃瓦斯が晴れた。午后二時十分宮古港に入る。すぐ上陸して入浴、梅の蕾を見て驚く。梅許りではない、四方の山に松や杉、これは北海道で見られぬ景色だ。菊池君の手紙を先に届けて置いて道又金吾氏(醫師)を訪ふ。御馳走になつたり、富田先生の消息を聞いたりして夕刻に辭す。街は古風な、沈んだ、黴の生えた様な空氣に満ちて、料理屋と遊女屋が軒を並べてゐる。街上を行くものは、大抵白粉を厚く塗つた抜衣紋の女である。鎮痛膏をこめかみに貼つた女の家でウドンを喰ふ。唯二間だけの隣の一間では、十一歳許りの女の兒が三味線を習つて居た。藝者にするかと問へば、“何になりやんすだかす”

 夜、九時抜錨。同室の鰊取の親方の氣焔を聞く。

啄木日記

昭和54年(1979年)4月、建立。

啄木寄港の地

啄木が釧路の新聞社をやめ函館を経て上京の途中、酒田川丸に乗って宮古港に寄港したのは明治41年4月6日のことであった。このたびは啄木にとって老母と妻子を北海道に残し、自分の文学的運命を賭けた文字通り悲壮な船旅であった。この碑文は『啄木日記』の中の当日の全文である。

宮古啄木会

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