このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
芭蕉の句碑
春立てまた九日の野山かな
成田市四谷の県道161号成田滑河線(水掛街道)沿いに児明神がある。
児明神
文明18年(1486年)、道興准后は「児の原」を訪れている。
下つ総の国児の原といへる所あり。いかなるゆゑに、かゝる名の所は侍るぞと、さと人に尋ねければ、此の在所、白波青林横行の地たるによりて、ある少人のとほりけるに、衣装など剥ぎ取るのみならず、剰へ殺害し侍りき。夫より此の所をかやうに号し侍るよし語り侍れば、今更の心ちして、塚のほとりに立ちよりて、思ひつゞけて廻向し侍りける。
佳人落命荒原上 蘇底古碑空刻名
勿恨青林犯花影 浮生有限辱兼栄
白波に浮名をなかす児の原恋ちにすつる身とも聞かはや
『廻国雑記』
児明神に道興准后の歌碑があった。
しら波にうき名をなかす児のはら恋ちにすつる身とも聞はや
『廻国雑記』は宗祇の著と信じられていた。
尚々、此度、宗祇庵取立、美丸法師の旅寝の労をも休められ候半と御計(の)よし、御奇特成事(に)候。就夫、宗祇児原にて詠ぜられ候歌、しら波にうき名を流すちごの原恋路に捨る身とも聞かはや、と廻国雑記とやらんにあるよし。
『花盗人』(三井舎安席編)
京都の漂泊俳人美丸法師は「宗祇の古跡」として「児の原」を訪ねている。
歌枕にかり寝せしこゝも宗祇の古跡とて、予が旅寝の労をやすめんと、一茎艸をもつて大貫刹と自得したる安席雅丈、志に笠を脱ぎて、
渋張の笠繕うて安居かな
定阿
『花盗人』(三井舎安席編)
児明神に芭蕉の句碑があった。
春立てまた九日の野山かな
出典は
『笈の小文』
。
貞亨5年(1687年)1月13日、伊賀上野の小川風麦亭で詠まれた句。
芭蕉の句の左に「月杵」の句が刻まれている。
名月ハ罪なき人の鏡かな
月杵は俳諧を
惺庵西馬
に学ぶ。初号里椿。江戸に出て静堂月杵と号した。
文政5年(1822年)、猿山村源太河岸(現在の成田市猿山)に生まれる。名は泰次郎。
明治15年(1882年)、61歳で没。
明治34年(1901年)4月12日、二世静堂可嘯建立。
二世静堂可嘯は久住村幡谷(現在の成田市幡谷)の人。香取喜兵衞。
明治34年(1901年)は月杵の二十回忌である。
權大教正
三森幹雄
書。幹雄73歳の時である。
「月杵」が句碑もあった。
静さやうへ見ぬ藤の花こゝろ
明治34年(1901年)2月15日、建立。春秋庵三木雄書。
西馬の句碑もあった。
五月雨ぬ樹はなかりけり児の原
慶応2年(1866年)11月、建立。
芭蕉の句碑
に戻る
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください