このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
芭蕉の句碑
い可免しき音やあら連の桧木笠
江差町姥神町の「いにしえ街道」に「ぱんやBecky」がある。
「ぱんやBecky」の脇に「能登屋の坂」という細い坂道がある。
坂道を上ると、芭蕉の句碑があった。
い可免しき音やあら連の桧木笠
出典は「真蹟短冊」。
い可(か)免(め)しき音やあら連(れ)の桧木笠
者(は)世(せ)を(芭蕉)
右の碑に刻まれているこの句は、松尾芭蕉
「野ざらし紀行」
で岐阜大垣より三重桑名の
多度大社
に向かう途中の貞亨元年(1684年)、初冬に詠んだ句である。
文化元年、蕉風を受け継ぐ奥州白石の俳人「
松窓乙二
」と共に蝦夷地を訪れた弟子の「太呂」は、江差にも来遊し、地元の俳人たちと交流した。後に「霰庵」という俳句結社をつくり、町医者「本田快庵」の屋敷内(現在地)に庵を結んだ。その太呂と台座に俳号が刻まれている霰庵の俳人25名は芭蕉の百二十年忌にあたる文化11年(1814年)10月12日に、芭蕉の句碑を快庵の屋敷内に建立したのである。(左の碑)。この句は芭蕉の数ある俳句の中でも江差に一番似合う句でもある。
いかめしき(荒々しい)音を響かせるタバ風(江差の冬期に吹く強風)と波頭、霰が降り厳しい蝦夷地の冬が始まると共に、結社名が「霰庵」。ニシンと共に江差繁栄の礎となった桧木(江刺はヒバの北限)も句中にある。2年後の文化13年(1816年)、秋田象潟出身の能登屋六代目「平井三右衛門」が快庵から庵・句碑と共に屋敷を購入し、それからこの坂道が「能登屋の坂」と呼ばれるようになる。明治5年(1872年)、能登屋屋敷が火災焼失するまで約60年にわたり、場所的利便性(下町の中心・上町とは坂で接続)もあって、江差の俳諧文化の拠点であった。句碑は、その後昭和6年(1931年)、鴎島の
厳島神社
境内へと移されたが、建立されてから200年を迎えるにあたり、元の地である能登屋屋敷跡に移設することとした。左の実物句碑は、能登屋屋敷が火災により剥離が進み修復困難であるので、右に新たな句碑を建立した。
平成24年(2012年)10月12日
実物句碑
文化7年(1810年)9月13日、乙二は太呂を伴い函館に着く。
文化10年(1813年)5月、乙二は白石に帰る。
文政元年(1818年)8月15日、乙二は再び函館に滞留。
文政2年(1819年)12月19日、乙二は三厩に着く。
能登屋は文化13年(1816年)7月25日江差中歌町から現在地に移り、代々廻船宿・会議所・旅籠を営んだ関係で、幕末の歴史に名を残した人物が宿泊、又立ち寄った。弘化4年(1847年)江差に「百印百詩」という大きな文化遺産を残した2人の若者、一人は「頼山陽」の三男で安政の大獄で処刑された「頼三樹三郎」、もう一人は北海道の名付け親でもある「松浦武四郎」、2人は「能登屋の坂」を昇り降り時、よく立ち寄った。函館戦争時、明治元年(1868年)11月15日、開陽丸で来た「榎本武揚」、艦長の「沢太郎左衛門」等幹部が宿泊、その夜天候が急変、暴風雪のため開陽丸座礁沈没。その後
松前城
を落とした「土方歳三」が江差に到着、能登屋に来て開陽丸が沈んでゆく様を榎本らと見る。明治2年3月陸軍奉行「大鳥圭介」が江差視察時に宿泊する。同4月10日新政府軍の江差上陸時には「松前藩」の本陣となった。尚、句碑台座に刻まれている俳号の「半三」は能登屋六代「平井三右衛門」と想われる。
建立・碑文 能登屋十五代 平井良治
協力者 秋田市 平井洋子
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