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芭蕉の句碑
原中や物にもつかず啼雲雀
深谷市岡里の国道17号沿いに芭蕉の句碑がある。
芭蕉の句碑
原中や物にもつかず啼雲雀
出典は
『あつめ句』
。
貞亨4年(1687年)、芭蕉44歳の時の句。
『続虚栗』
(其角編)に収録されている。
昭和32年10月12日、岡部村文化会建立。
文明19年(1487年)、道興准后は武蔵野の雲雀を詠んでいる。
武蔵野に出でて、酒など飲みて遊びけるに、はじめて雲雀の揚るをみて、
若草の一本ならぬ武蔵のにおつる雲雀も床まよふらむ
『廻国雑記』
句碑の隣に「芭蕉翁句碑雲雀塚由来の記」の碑が建っている。
芭蕉翁句碑雲雀塚由来の記
岡部の原はその名高く、平安の昔曽根好忠に歌はれ、室町の頃『回國雜記』に書かれた武蔵野は、北端中山道を距てゝ小山川の清流に臨み、田園よく拓けて一望三百餘。町遠く浅間の噴煙、男体の白雲を眺め、赤城榛名妙義の三山は指顧の間にある。春陽遅々たる日こゝに囀り上る雲雀の声は天下無雙と謳はれ、特に地名に因んて「砂田の雲雀」といはれた。季年彌生の候にこの地を旅する加賀侯も駕籠を停めてその啼聲に聞きほれたとのことてある。果せる哉、俳人小林牛角師は芭蕉翁の名吟
原中や物にもつかす鳴雲雀
の句碑を建てゝその風雅の道を偲んた。郷人呼ひて雲雀塚といふ。
この句『續虚栗』に載せられ、翁の壯年期の作と推定される。翁が日夜私淑した西行の詩精神を渾化した無著の心を懷しむと共に、凝滯せぬ雲雀の聲の無心さをよく現はしている。 春の日の駘蕩の趣と何か悠久なるものへのいさなひをさへ感しさせる。眞にこの句この碑ほとこの地の景物たる雲雀を讃美するに値したものはなかつた。しかし星霜の久しき遂に名は碎け文字はうすれて鑑賞に堪へられなくなつた。先に蝶園秋香老これを愁へ、この度岡部村文化会の有志これを悲しみ雲雀塚の再建を志し、新たに句の揮毫を信濃なるからむしの主蕾丈大人その由来の文を余に嘱し石に鐫して後代に遺し、長く蕉風の雅懐を傳へることになった。 行人のこの地に立って雲雀の声に耳を傾け、翁の句を口すさむことかあれは、こそなき幸てある。
昭和三十二丁酉年十月十二日
埼玉県俳句連盟顧問籬窓山口平八撰
蝶園茂木秋香門人江南鳥塚勇三郎書
「小林牛角師」は、岡部の人。小林丑松。
「蝶園秋香老」は、矢島村(現深谷市)の俳人
茂木秋香
。名は信次郎。
深谷市岡の旧家に
「雲雀塚元碑」
がある。
「岡部の原」は岡部六弥太の旧跡である。
岡部の原といへる所は。彼の六彌太といひし武夫の舊跡なり。近代關東の合戰に數万の軍兵討死の在所にて。人馬の骨をもて塚につきて。今に古墳數多侍りし。暫く回向して口にまかせける。
なきをとふ岡べの原のふる塚に秋のしるしの松風ぞ吹く
『廻国雑記』
昭和43年(1968年)12月、岡部村は町制施行し、岡部町となる。
平成18年(2006年)1月1日、岡部町は深谷市、花園町、川本町と合併し、深谷市を新設。
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