このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

牧水歌碑
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長沢海岸
 横須賀市長沢の国道134号沿いに長岡半太郎記念館・若山牧水資料館がある。


長岡半太郎記念館・若山牧水資料館の前は長沢海岸。


鋸山がかすんで見える。

長沢海岸に若山牧水の歌碑が2基あった。

 若山牧水は本名は繁、明治18年(1885年)8月24日、宮崎県東臼杵郡に生まれた。県立 延岡中学校 を卒業した後上京、早稲田大学に学び、明治45年 太田喜志子 と結婚した。大正2年長男旅人を出生したあと喜志子は体調がすぐれず、転地療養を勧められ、大正4年(1915年)3月に長沢の川端の家(斉藤松蔵方)に移り住んだ。

延岡中学校時代の牧水(後列左端が牧水)


 風光明媚、気候温暖な当地での静かな明け暮れのなかで、喜志子の健康は次第に回復し、大正5年11月には長女みさきが生まれた。

「夫婦歌碑」


しら鳥はかなしからずやそらの青海のあをにもそまずたゞよふ
   牧水

うちけぶり鋸山も浮び来と今日のみちしほふくらみ寄する
   喜志子

 右に立つ「しら鳥」の歌は明治40年12月の『新声』に発表されたものであるが、牧水はまだ23歳の学生歌人であった。

 碑の背面に刻まれた「鋸山の歌」は、喜志子が当地に住んでいる頃「海辺に移りて」と題して発表したもので、表裏合わせて「夫婦歌碑」と呼ばれている所以である。昭和28年に建立された。

 『牧水歌碑めぐり』(大悟法利雄著)によれば、昭和28年(1953年)11月3日除幕、16番目の牧水歌碑である。

「海越えて」の歌碑


海越えて鋸山はかすめども此処の長浜浪立ちやまず

 左にある「海越えて」の歌碑は、昭和62年に建立された。歌集『砂丘』のはじめに「三浦半島」と題して「病妻を伴い三浦半島に移住す、三月中旬の事なりき」と記したあとに発表した長沢海岸から房州鋸山を詠んだ歌である。

 「漂泊の歌人」と言われ、旅と酒を愛した牧水は、地域の人々との温かいふれあいもあって、喜志子の日常も順調にすすむようになり、大正5年12月28日、東京小石川に引き揚げていった。

横須賀市

浜梨(はまなす)が咲いていた。


 2006年2月25日、若山牧水の生誕地東臼杵郡東郷町は日向市に編入した。

最光寺 へ。

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