このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

牧水歌碑

筑後川昇開橋展望公園
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 大川市向島の筑後川昇開橋展望公園に若山牧水の歌碑があるというので、行ってみた。

筑後川昇開橋展望公園の駐車場の前に若山牧水の歌碑が2基あった。



大川にわれは来にけりおほかはの流るるごとく酒わける里に

 昭和39年(1964年)9月17日、志岐信次別宅庭内に建立。

 大正十三年春、帰郷途中の牧水は、九州では福岡県各地を廻り、長崎に行きまた福岡県に引き返し、三月二十日には筑後川左岸の町大川に行った。そこに数人の若い門下がいたからである。

 木工で知られた大川は「筑後灘」とも言われる酒の町なので、すっかり御機嫌になった牧水は、歌集に載っていない次のような酔中の戯歌を半切に書いて残している。

   大川にわれは来にけりおほかはの流るるごとく酒わける里に

 亡き師をなつかしむ門下たちによってそれが歌碑となり、昭和三十九年の忌日九月十七日に除幕式が行なわれた。建てられたのは大川市大字小保字矩手(かぎのて)の志岐信次別宅庭内で、この志岐も古くからの牧水門下である。

『牧水歌碑めぐり』(大悟法利雄著)

 平成28年(2016年)4月16日、大川ライオンズクラブ創立55周年記念事業として移設。

大正13年3月、歌人の若山牧水は大川市を訪れ、この歌を含む5首を詠んだ。満38歳の頃、晩年である。出迎えたのは門下生たち。歌会などで折々に歌を論じていた。自然を愛し、旅を愛し、旅にあって各地で歌を詠んだ牧水。大川市は名の知れた酒どころである。大の酒好きだった牧水は門下生と語らい、杯を酌み交わした。興じて歌を詠んだ。声高らかにうたった。

この歌は、門下生の志岐春吉氏が掛け軸にした。後に彼らは、牧水が河口見物をした筑後川の土手に歌碑を建てようとしたが、かなわなかった。そこで、門下生の志岐信次氏が土地を提供。妹のシツヱ氏が絵画蒲鉾制作の技術を用いて牧水自筆の半紙を拡大し、模写をほどこした。

昭和39年9月、大川市小保の志岐邸の庭に歌碑を建立。彼らは幾多の宴を催し、師の歌碑に酒をそそいでしのんだ。

平成28年4月16日、大川ライオンズクラブは、先人に敬意と甚深なる感謝を捧げ、創立55周年記念事業として、志岐邸の歌碑をここに移設する。



筑後川の河口ひろみ大汐の干潟はるけき春の夕ぐれ

平成9年(1997年)12月15日、大川ライオンズクラブ建立。

若山牧水先生は、平易純情な浪漫的作風の国民的歌人であり、旅を好み、酒を愛し、最も「歌人らしい歌人」、「旅人らしい旅人」として今でも親しまれている。独特な流麗な声調の底には一脈の哀愁の流れがあり、広く愛誦され、全国に建立された歌碑は、100にも及ぶといわれている。

先生は、明治18年8月24日、宮崎県臼井郡 東郷村坪谷 に医師若山立蔵の長男として生まれ、繁と命名された。

中学時代から作歌され、「牧水」と号し早稲田大学英文科入学の頃から、尾上柴舟の門下となり、雑誌「新声」に作品を発表して次第に注目される。大学卒業と同時に処女歌集「海の声」を出版、明治43年4月に出版された歌集「別離」によって同門の前田夕暮とともに、歌壇に「牧水・夕暮時代」を確立された。同年、雑誌「創作」を編集され、まもなく自ら創作社を起こしてその主宰発行を続けられ、専ら歌人としての生涯を送られた。

そして昭和3年9月17日、肝硬変のため惜しまれながら早世、満43歳であった。生涯に於いて創作された歌集は15冊、収録された歌数は6898首に及び、歌のほか優れた紀行文、随筆も多い。ここに建立された歌碑は若山牧水が大正13年3月21日亡き父十三回忌法要のため、長男旅人氏(当時小学校5年生)を伴い故郷坪谷に帰郷された折り、大川を訪れその弟子ら10数名と歓談の一日を過されたとき詠まれたものである。

牧水来遊の一文に「健脚の先生はじつとしていなかった。風浪宮にも参拝、新地周辺の浜も散策された。「大川は干潟の町だね。」とつぶやきながら、いつまでも河口の夕景に見入られていた。」とある。

ともに歌集未収録の歌である。

   筑後大川町にて

庭の松乏しかれどもそよ風にさゆらぐ見れば春は来にけり

十六夜はよべなりしかな今宵この月待ちがてに酒すすりをり

第15歌集『黒松』

大川で詠まれた未収録の歌は、もう1首ある。

大川のそのみなかみときくからに飲までをられぬこの草鞋酒

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