このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

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牧水歌碑

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多古町蔦屋

多古町多古の民家に 若山牧水の歌碑 があるのといので、訪ねてみた。


民家の玄関先に若山牧水の歌碑があった。


   大正十四年八月二十八日多古町蔦屋にて   牧水

はるけく日はさし昇り千町田のたり穂の露はかゞやけるかも

左に小さく 喜志子 の歌が刻まれている。

通り雨ふりつよみ来て端居するゆかたのたもとぬれにけるかな

『牧水歌碑めぐり』(大悟法利雄)によれば、94番目の牧水碑である。

 若山牧水、喜志子夫妻は、大正十四年八月二十四よりこの日まで、門下の細野春翠らと、蔦屋主人市原翰介、妻ヨ子の接待を受けて逗留し、この歌を詠み、書を残す。

 当時、蔦屋の離れからは、多古のたんぼが一望のうちにあり

 今、往時をしのび、その地にこの碑を建てる。

昭和五十七年八月二十八日

市原正夫

 大正14年(1925年)8月23日、牧水は佐倉町で歌会半折會開催。米新旅館に泊まる。

  24日、 成田不動 に参詣して多古町着、蔦屋に泊まる。

今日成田から飛ばした自動車は實によかつた、車體がいゝのではなく、四邊のけしきがよかつたのです、三里塚のあたりを走る時、流石に酒臭を抜いてかんたんした、牧水。

8月24日、大悟法利雄宛葉書

細野春翠は当時多古町の小学校の校長で蔦屋に下宿していた。

 昭和30年(1955年)1月9日、喜志子夫人は再び多古町の蔦屋を訪れる。

 昭和34年(1959年)8月30日、喜志子夫人は三度多古町の蔦屋来訪。

市原正夫氏は元千葉県立美術館長。

2010年8月26日、市原正夫氏は交通事故で亡くなった。

ご冥福を祈る。

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