このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
私の旅日記
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2011年
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海宝寺
〜服部耕雨〜
旭市琴田の県道28号旭小見川線沿いに海宝寺という寺がある。
海宝寺は、椿の海が干拓され幕府が建立を許可した三社五寺の一つ。
延宝9年(1681年)6月、太田村下新田に開基。
元禄4年(1691年)、現在地に移る。
海宝寺山門
山門の右手に大きな「香樹園耕雨翁碑」があった。
服部耕雨の頌徳碑である。
大正7年(1918年)、建立。
「香樹園耕雨翁碑」の右手に
芭蕉の句碑
があった。
花の雲鐘は上野かあさくさか
出典は
『続虚栗』
(
其角
編)。
貞亨4年(1687年)、芭蕉44歳の句。
昭和5年(1930年)5月、芭蕉の二百五十回忌に莊伯建立。
莊伯は飯岡の人で、耕雨の門人。
碑陰に莊伯と耕雨の句が刻まれている。
時雨會や吊ふ二百五十年
莊伯
翁忌や我は耳順に手の屆
故耕雨
昭和18年(1943年)が芭蕉の二百五十回忌である。
山門の左手に服部耕石・耕雨の句碑があった。
穐の声銀河や墜ちて砕け舞
耕雨
甘藷の花秋の暑さを集免多利
耕石
昭和10年(1935年)、建立。
服部氏の先祖は江戸で尾張藩御用の呉服業を営んでいた。椿の海干拓事業に出資し、干拓地の大間手、ついで琴田村に住み、海宝寺の創建にも尽力した。
服部家は大須賀乙字の流れをくんだ俳諧に長じ、心境を自由に表現する新しい俳諧を志し、下総各地に多くの門人を育成した。
服部家は代々治左衛門と称し、耕雨は父柏園の指導を受けて俳諧に力を尽くし、指頭庵四世と称して門人の育成にあたった。大正6年、66歳で死去した。大正7年、海宝寺に頌徳碑が建てられた。
耕石は(後に畊石と変えた)は父の後を継いで指頭庵五世となり、句誌「高潮」を主宰して同人と共に活躍した。さらに若くして嚶鳴村長も勤め、また篆刻家としても名を成した。後に東京市牛込五軒町に住み、昭和14年、64歳で死去し、地元海宝寺に葬られた。
昭和10年、有志により海宝寺境内に耕石・耕雨の句碑が建てられた。
旭市教育委員会
福聚山海宝寺
真言宗智山派
の寺である。
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