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新年の旅日記

秋山兄弟生誕地〜秋山兄弟の像〜
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松山市歩行町に 「秋山兄弟生誕地」 (HP)がある。

 秋山兄弟生誕地一組の兄弟をえらんだ。

 すでに登場しつつあるように、伊予松山のひと、秋山好古と秋山真之である。この兄弟は、奇蹟を演じたひとびとのなかではもっとも演者たるにふさわしい。

司馬遼太郎 著『坂の上の雲』(文藝春秋刊)単行本:1巻より

挿絵第63回


挿絵第1197回


兄・秋山好古(1859−1930)


 秋山好古は松山藩士久敬の三男。教員を志して大阪に出たが、陸軍士官学校創設に応じて入学、さらにフランスの騎兵学校に学び、日本陸軍騎兵の父となる。日露戦争起こるや世界最強のコサック騎兵隊を破って勇名を馳はせた。陸軍大将に栄進、要職を歴任したが教育総監を拝命したとき最も喜んだという。退役時元帥奏請の動きがあったが固く辞退した。

 退役直後、郷里松山の私立北豫中学校長を懇請されると直ちに快諾。勲一等陸軍大将の一私立中学校長就任は全国を驚倒せしめた。その教育を重んずる志を知るべきであろう。校長就任後は、亡父の残したこの旧屋から6年半、一切軍服を着ることなく騎馬で皆勤した。

 「墓は大きなものを作ると子孫が迷惑する。軍人は立派な家を建ててはいかん。銅像などいらん」

 生前のこの希望には叛いたが郷党の敬慕の念止みがたく、弟・眞之の銅像に続いて昭和11年同じ道後公園に騎馬像が建設された。先の戦争中金属供出で無念にも鋳つぶされたが、幸いにも銅像制作時に作られたレプリカが残っていたので、それを基に新技術を駆使した拡大粘土モデルを制作し、さらに作者の遺族らの監修を受け、出来る限り昔の姿にと念じ復元した。

弟・秋山真之(1868−1918)


 この胸像は、海上自衛隊幹部学校(東京都)に安置されている「秋山中将像」を同校および秋山家子孫のご了解を得て複製したものである。原型は大正14年、眞之の海軍大学校の教え子が醵金して作った。

 眞之は、久敬の五男。松山中学の親友 正岡子規 の跡を追って東京大学予備門に進学したが、後に海軍兵学校に入学。主席を通して卒業後、主として米国に留学。海軍大学校教官を経て、日露戦争において連合艦隊先任参謀となり、日本海海戦で大勝をおさめ、「天気晴朗なれども波高し」の名文とともにその名を残した。

 大正3年シーメンス事件露顕、海軍の危機。眞之は軍務局長を命ぜられ処理に当たるが粛正の対象者の恨みを買うことにもなる。間もなく第一次世界大戦が起こり、参戦決断の衝に当る。他方中国では大正元年清朝が倒れた後の混乱が続いていた。眞之は中国革命の父、孫文を助けてその軍資金調達に奔走したが、志ならず軍務局長を罷された。

 間もなく大正6年12月中将に昇進と同時に待命となったが、折々「米国とはコトを構えたらいかん。大変なことになる」ともらしていた。米国を仮想敵国とした建艦競争の行末を案じたものである。

 大正7年2月、急逝。年齢いまだ49年11ケ月。

 大正7年(1918年)2月4日、秋山真之は小田原の「対潮閣」(山下亀三郎別邸)で盲腸炎が悪化して亡くなった。

秋山両將遺邸の碑


陸軍大将 南次郎 著

碑文の要約

 秋山好古、秋山眞之両将軍の旧邸は、天保年間、父久敬翁がこの地に建立したと伝えられる。兄弟はこの質素な家に生まれ育ち、好古將軍は退役後ここに住み北豫中学校の校長として子弟の教育に尽した。

 秋山兄弟はすでに亡くなられたので、兄弟とゆかりの深い伯爵久松定謨、山下亀三郎、新田長次郎らが資金を集め西隣地も購入し、その管理を常盤同郷会に委嘱した。

 両將軍の功績は、あらためて記す必要のない程偉大であり、誰もが知るところである。

昭和12年7月 秋山両將遺邸保存会 井上 要

碑に記載された人物

 久松定謨:旧松山藩主久松家の当主、フランスに好古をともない留学。常盤同郷会を創設し、青少年の教育に尽した。

 山下亀三郎:眞之を信奉した山下汽船創業者(吉田町出身)

 新田長次郎:好古と親交があり「新田ベルト」他の創業し、好古と北海道で馬匹改良に尽した(松山市出身)



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