このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

今年の旅日記

「正岡子規邸址」〜子規の歌碑〜
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松山市湊町3丁目の中の川通り緑地帯に「正岡子規邸址」の碑があった。


正岡子規生い立ちの家跡

  子規 は俳句・和歌の革新を行い、写生文を提唱して俳聖と仰がれている。2歳から明治16年17歳で上京するまで住んだ家がここにあった。

   くれなゐの梅散るなへに故郷(ふるさと)

         つくしつみにし春し思ほゆ

 子規の最初の歌碑で、昭和26年50年祭のとき、子規の育った屋敷跡に建立した。明治35年3月10日午後4時過ぎ、門人の歌人 伊藤左千夫 が紅梅の下に土筆などを植えた盆栽を贈った。それを眺めて朝な夕なに作った歌11首を明治35年3月26日、新聞「日本」に発表した。この歌はその一首。「なへに」は「…につれて」の意。文字は『仰臥漫録』の自筆の拡大。

松山市教育委員会

俳句の里 城下コース27番

明治35年(1902年)9月19日、子規歿。

子規の歌碑


くれなゐの梅散るなへに故郷につくしつみにし春し思ほゆ

昭和26年(1951年)9月19日、建立。

 昭和35年(1960年)11月29日、山口誓子は「正岡子規邸址」見に行った。

 子規の住んでいた中の川の家の址も見に行った。いま湊町四丁目。子規の歌碑が立っている。中の川をうしろにして、川沿いの家はみなおでん屋だ。昔、あった子規の家は士族屋敷で、玄関を入った左に三畳の勉強部屋があった。南側の窓の下に、机が一脚、本箱が三つばかり並んでいて、本箱には子規の筆写した本が詰っていた。貧乏士族の子である子規は、字が巧くて筆まめだったので、本を筆写することを苦にしなかったのだ。

『句碑をたずねて』 (四国・九州路)

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