このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

新年の旅日記

一乗谷朝倉氏遺跡〜サクラ〜
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福井市城戸ノ内町に一乗谷朝倉氏遺跡があるというので、行ってみた。

観光客が多いのに驚いた。

あいにく雨が降り出した。

唐門


特別史跡 一乗谷朝倉氏遺跡

日本100名城 No.37である。

朝倉義景館

 この館は山城を背にして西を向き3方に堀と土塁を巡らし、門を開き、隅櫓(すみやぐら)を構えている。内部には10数棟の建物群がみられ、これらは大きく2つに分けられる。1つは主殿を中心として南半に位置するもので、接客の機能を持ち、会所や数寄屋・庭園等もみられる。もう1つは常御殿(つねごてん)を中心にこの北側に位置するもので、主人の日常生活の場となり、台所や持仏堂・湯殿等もみられる。この他、厩等も存在した。建物はすべて礎石の上に角柱を立て、舞良戸(まいらど)・明障子(あかりしょうじ)といった引戸を多用し、畳を敷きつめた部屋も多かった。また屋根は柿(こけら)板等で葺いていたと考えられている。書院造の成立過程を知る上で欠くことの出来ない貴重な遺構である。

義景館跡庭園


特別名勝 一乗谷朝倉氏庭園

 特別史跡一乗谷朝倉氏遺跡には、庭池の周囲に豪壮な庭石組を伴った林泉庭園から、数個の立石・伏石と小礫の化粧敷からなる枯淡な枯山水平庭まで数多く遺存する。それらの中で湯殿跡・諏訪館跡・義景館跡・南陽寺跡の4庭園が「一乗谷朝倉氏庭園」として平成3年(1991年)5月28日、国の特別名勝に指定された。

 義景館跡庭園を除いた3庭園は、庭石組などが地上に露出していたこともあり名園として知られるところで、昭和5年(1930年)すでに国の名勝に指定されていた。しかしその後の管理が不十分でかなり荒廃していたので、昭和42年庭池の堆積土の除去や周囲の雑木の伐採などが行われ整備された。また昭和62年には湯殿跡・諏訪館跡で、庭池に導水するための石組溝や暗渠が発掘された。

 山地を背景に凝灰角礫岩の立体的庭石組がなされている。湯殿跡庭園が最も古く、他の3庭園は義景時代の作庭で、庭石組の形式もよく類似する。後世に改変されることなく、室町時代末期の庭園様式をよく伝えている。

 義景館跡庭園 完全に埋没していたが、昭和43年の館跡の調査で発掘された。汀の庭石を建物の礎石に兼用するなど、建物と庭園が密接な関係のもとに作られていた。庭池は数寄屋の南の山裾に設けられ、中央に滝石組がある。滝口の前方には水分石Dが、滝石組の左方には橋挟石と石橋の残片Hが遺存する。東側の急斜面には、つづら折に流れ落ちる導水路が作られている。

 数寄屋跡の西には縁を介して、庭石を数個配し小砂利を化粧敷した枯山水平庭がある。当庭園には海石の安島石(普通輝石紫蘇輝石安山岩)や青石(緑色片岩)が一部に使われ、華麗な桃山庭園様式の芽生えがみられる。

石段を上る。


スミレが咲いていた。


朝倉義景館

 眼下に見られる遺構群が、第5代当主の館跡です。規則正しく並んだ礎石の上には建物の柱が立ち並び、図に示したような建物群を構成しています。

 実際の建物の様子については復原模型写真に示すとおりです。門は西側の正門の他に、北と南側にもありました。高さ1〜4.5m、幅5〜13mを測る土塁の内側の面積は6,425㎡を測りますが、実際の館の敷地としては背後の山の一部および隣接する湯殿跡も空堀によって区画として取込んでいることから、その部分も含めると約19,000㎡となります。

 この館では、義景が永禄11年(1568年)に後の15代将軍・足利義昭を招いて盛大にもてなしたことが、『朝倉亭御成記』等によって分かっています。

サクラ


湯殿跡庭園


特別名勝 湯殿跡庭園

 本庭園は、一乗谷で最も古い4代孝景の頃の、廻遊式林泉庭園である。

 庭池は南北に細長く、汀線は複雑に入り組んだ形で、周囲には山石の巨石(凝灰角礫岩)による護岸石組や滝石組、三尊石組などの豪快な石組がなされている。滝副(たきぞえ)石は左右ほぼ同じ高さで、水落石は1段、滝口の前には、水分石がある。導水路が発掘され、往時は池に水がたたえられていたことが分った。

 中島は亀島、西端の大石は鶴石ともいわれている。

 右方には園路の跡があり、池尻付近には橋挟石に相当する石もみられ、排水路の出口は空濠石垣で壊されている。

 観音山を背景に、林立する苔むした庭石群は、一幅の水墨画を連想させる。

復原町並を見下ろす


中の御殿跡


 中の御殿跡は、朝倉義景の実母光徳院の屋敷跡と伝えられています。この高台は、南陽寺跡や諏訪館跡とならんで義景時代の華やかな生活の場であり、義景館近傍の屋敷に朝倉氏当主の妻子などが居住したであろうことが想像できます。

 屋敷は南の道路に対して門を構え、この道に面する南辺と東辺に土塁、さらに東辺土塁の外側と北辺に空堀を廻らしています。屋敷内は、門を入って右手に小規模な建物と、さらに奥に庭園(砂利敷部分)が検出されています。また、庭園北側に規模は明らかではありませんが、礎石建物が検出されており、主たる建物があったと考えられます。これより北東奥には南北7間、東西2間を基本とする建物が検出されており、規模や位置などから、日常の建物と考えるのが可能です。

道路跡のサクラ


道路跡の石段


水路


遊歩道のサクラ


 天正元年(1573年)13日、朝倉義景は刀根坂の戦いで 織田 軍に大敗。15日一乗谷に帰還。16日には一乗谷を放棄し、裏切りにより、20日、義景は自害。享年41。

昭和45年(1970年)、 山口誓子 は一乗谷をを訪れている。

   一乘谷

放哉に倣ひて「咳をしても雪崩」

『不動』

一乗滝 へ。



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