このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
私の旅日記
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2014年
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由利公正宅跡
〜坂本竜馬の歌碑〜
北ノ庄城址公園
から足羽川の幸橋を渡る。
由利公正の像があった。
由利公正
(1829〜1909)
由利公正は、幕末・明治期の政治家です。
文政12年(1829年)、現在の福井市毛矢1丁目に福井藩士三岡義知の長男として生まれました。初め石五郎、後に八郎、公正と改名しました。また、明治3年(1870年)以後は、先祖の旧姓の由利を名乗りました。
横井小楠
(しょうなん)
に師事し、藩の財政建て直しを含む、藩政の改革に貢献しました。
明治新政府の成立後は太政官札(新政府の発行した最初の紙幣)を発行するなど、財政基盤の整備や、「五箇条の御誓文」の原案となった「議事之体大意」を作成しました。
その後、東京府知事となり、銀座通りの整備等を行いました。
また、民撰議院設立建白書にも名を連ね、明治42年(1909年)に、81歳で亡くなりました。
由利公正に関わる幕末の偉人たち
横井小楠
(1809〜1869)
熊本藩士。後に福井藩に政治顧問として迎えられた思想家です。
公正たちを指導し、殖産興業策を進め、藩政の改革に関わりました。
福井での滞在中、公正の居宅に近い足羽川の対岸に住んでいたことがあります。
坂本龍馬
(1835〜1867)
土佐藩士。公正のもとを2度訪れています。文久3年(1863年)には、横井小楠の案内で、公正の居宅を訪ね、酒を酌み交わしながら、国事について語り明かしました。
大政奉還直後の慶応3年(1867年)には、旅館「莨屋」で新政権の構想について語り合いました。
フェニックス通りを渡ると、「由利公正宅跡」の碑があった。
由利公正宅跡
この附近は、かの明治政府初代の財政担当官として、又五箇條の御誓文の起案者として知られている、福井藩出身の逸材由利公正の宅跡である。彼は在藩時代三岡八郎と称して、ここに居を構えていたが、幕末維新の大立者坂本竜馬が福井藩の賓師として名声のあった横井小楠が彼を訪ねて、ここに足跡を印したことがある。
左に坂本竜馬の歌碑があった。
君がため捨つる命は惜しまねど心にかかる国の行く末
坂本家九代目当主坂本登書
龍馬の歌碑
文久3年(1863年)5月、坂本龍馬は神戸海軍塾資金調達の為福井に来た際に、ここ由利公正(三岡八郎)宅跡へ夜半にも関わらず、幸橋(文久2年架橋)を横目に小船に棹さして福井藩政治顧問・横井小楠と共に訪れた。
そこで、肝胆相照らす仲となり福井藩の挙藩上洛の話や、ニッポンの洗たくの話など熱い想いを歌に託し、この地にて謡ったと伝わっています。
「そこで三人が炉を抱えて飲み始めたが、坂本が愉快極まって
—— 君がため捨つる命は惜しまねど心にかかる国の行く末 ——
という歌を謡ったが、その声調が頗る妙であった。翌朝、坂本は勝と大久保に会いにいくという事で、江戸に向かった。」(『由利公正伝』より)」
とあります。
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