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私の旅日記2015年

称念寺〜芭蕉の句碑〜
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坂井市丸岡町長崎に 称念寺 (HP)という寺がある。


称念寺


時宗 の寺である。

本尊の木像阿弥陀三尊立像は坂井市指定文化財。

古くは長崎道場と呼ばれました。長禄3年(1459年)に書かれた称念寺縁起(市指定文化財古文書)によると、養老5年(721年)に泰澄大師創建とあり、白山信仰と深い関わりがあったようです。また、正応3年(1290年)に時宗の道場となったとの記録があります。その後室町、安土桃山、江戸時代と時の権力者の保護を受けた称念寺には、称念寺所蔵勅書・綸旨(市指定文化財古文書)や、朝倉系図(市指定文化財古文書)など多くの文書が残っています。

坂井市教育委員会文化課

 元禄2年(1689年)8月11日、芭蕉は称念寺に立ち寄り、「月さびよ明智が妻のはなしせむ」を詠んだという。

本堂の北側に 芭蕉の句碑 があった。


月さひよ明智か妻のはなしせむ

出典は「真蹟懐紙」。

 元禄2年(1689年)9月11日、芭蕉は伊勢山田に至り、翌12日から西河原の島崎又玄方に滞在した。

伊賀上野渡邊萬吉書

隣に 俳文碑 があった。


月さびよ明智が妻のはなしせむ

はせを

將軍明智か貧のむかし、連哥會いとなみかねて侘侍れは、其妻ひそかに髪をきりて、會の料にそなふ。明智いみしくあはれかりて、いて君、五十日のうちに輿にものせんと、いひて、頓て云けむやうになりぬとそ。

平成元年(1989年)7月、丸岡町文化協議会建立。

明智光秀公と黒髪伝説・松尾芭蕉碑

明智光秀公は弘治2年(1556年)に齋藤義龍の大軍に敗れ、妻の熈子や家族と伴に、称念寺に逃れます。『明智軍記』と言う書物には、称念寺住職と和歌を詠み、漢詩を作ったことが記載されています。称念寺門前に寺子屋を開きますが、生活は貧しく仕官の芽もなかなか出ませんでした。やがて、朝倉の家臣と連歌の会を催すチャンスを、称念寺の住職が設定します。貧困の光秀には資金がない中、連歌の会は熈子の用意した酒肴で大成功に終わり、やがて光秀は朝倉の仕官がかないます。しかしその連歌の会の資金は、実は熈子が自慢の黒髪を売って、用立てたものでした。光秀はこの妻の愛に応えて、どんな困難があっても必ずや天下を取ると、誓ったのです。

この「夫婦愛の物語」は、称念寺門前の伝承になり、江戸時代の松尾芭蕉が、「奥の細道」の旅の途中に、取材しました。その後、芭蕉は伊勢の山田又玄宅を訪れます。又玄は貧しい神官で、才能がありながら、出世できないことに悩んでいました。そこで芭蕉は弟子の又玄に、『月さびよ明智が妻の咄せむ』の句を贈って励ましたのです。もちろん「明智の妻の話し」とは、称念寺の光秀夫婦愛を指します。意味は、「又玄よ、今は出世の芽がでないが、あなたにはそれを支える素晴らしい妻がいるじゃないか。今夜はじっくり明智の妻の黒髪伝説を話してあげよう」とでも訳せましょう。芭蕉の師弟愛が、伺えます。

なおその光秀の夫婦愛を見ながら、称念寺で永禄6年に生まれたお玉(細川ガラシャ)も、両親に劣らぬ夫婦愛に生きた方でした。お玉の生き方が、天下分け目の関ヶ原の戦いに影響したといわれるぐらいですから、その夫婦愛は母の熈子譲りの筋金入りと言えましょう。

「伊勢の山田又玄」ではなく、「伊勢山田の又玄」ではないだろうか。

称念寺には福井県史跡「新田義貞公御墓所」がある。


 延元3年(1338年)、 新田義貞 は福井市灯明寺畷で戦死。称念寺境内に葬られた。

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