このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

新年の旅日記

小浜公園〜山川登美子の歌碑〜
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小浜市香取の県道235号加斗袖崎住吉線沿いに小浜公園がある。

山川登美子の歌碑があった。


髪なかき少女とうまれしろ百合に

   額は伏せつゝ君をこそ思へ

小浜公園の石段を上っていくと、もう一つ山川登美子の歌碑があった。


いく尋のなみはほをこすくもにゑみ

   北國人とうたはれにけり

昭和25年(1950年)12月、建立。

山川登美子女史 略傳

山川登美子女史は「恋衣」の作者の一人として所謂新派和歌革新期の明星派の女流歌人であるが、むしろ新詩社の主宰与謝野鉄幹をめぐる鳳晶子のライバルとして悲恋に涙した佳人として世に知られている。登美子女史は旧酒井藩士山川貞藏の四女として、明治12年(1879年)7月26日、小浜市上竹原の旧士族屋敷に生まれた。高等小学校卒業後28年3月大阪梅花女学校に入学するため郷里を離れた。大阪で学校のかたわら旧派の和歌を習作するようになり「新声」「文庫」等への投稿を続け新詩社の社友となって与謝野鉄幹に師事するに及んで歌作は益々その浪漫的文学の華麗な世界に踏み入り女史の名はわが国歌壇を賑わせるに至った。

33年山川駐七郎(元メルボルン領事館駐在書記・当時銀座江頭煙草商会支配人)と結婚。僅か1ヶ年にして夫君の肺患のため郷里に帰って夫君静養に尽くされたのであるが、35年12月、夫君と死別。子供が無かったので、翌36年4月、東京へ出て亡夫の実家東京牛込の邸に起居。翌年、日本女子大学英文課に入学して寄宿舎に入るや、新詩社を中心として与謝野晶子・茅野雅子等との交友、益々親密となり歌作は再び熾烈化していった。そして合著歌集「恋衣」を発刊行し、それが原因で雅子と共に女子大より退学処分を受けるに及び、さらに彼女らの友情と人間的信頼感を強固にしていったと傳えられる。

その後、登美子女史は亡夫と同じ肺患に罹り、京都の義兄邸に寄寓静養していたが、40年末、父君危篤の報を受け帰郷した。然し父君(当時国立二十五銀行頭取)の病重く、41年1月、父君の死去に逢う。悲嘆にくれつつ自らも病益々重きを加え、遂に42年4月15日、31才の若さをもって永眠された。

墓地は、小浜市伏原の発心寺にある。

「若狭のとみ子」の歌人としての名声を慕う郷里の有志によって、この海の見える公園に歌碑を造って女史の名を、とどめている。

      (故 土田 教雄 の書)
    幾ひろの波は帆を越す雲に笑み
        北国人とうたはれにけり           小浜市

山川登美子が小浜の人とは、知らなかった。



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