このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

今年の旅日記

中洲〜街歩き〜
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中洲を歩いてみることにした。

旧福岡県公会堂貴賓館


明治43年(1910年)3月、竣工。

国指定有形文化財である。

福博であい橋を渡ると、「三人舞子」の像があった。


三人舞子 小島与一作

 この銅像は小島与一(明治19年〜昭和45年)による博多人形「三人舞妓 」(高さ40センチ、極彩色)を3倍に拡大、彩色は博多産粘土の素焼き過程にちなむ。

 大正14年、作者38歳。パリ万国現代装飾美術工芸博覧会の国際舞台に農商務省指名により原型人形を制作出品,銀賞受賞の栄誉に輝く。不滅の意義を刻んだ。

 作者はなお清新な名作を世に問い続け後継者育成に尽力、名人と呼ばれ多くの市民に親しまれた。

 銅像は故人が愛した清流のほとり、博多の街と人形の生々発展を見守る。

江頭光 識

那珂川通り沿いに「原田種夫文学碑」があった。


   人間
原田種夫
ひとを にくむなかれ
にくむこころは はりねずみ
サボテンのとげのいたさである
ゆるしてやれ いたわってやれ
ひとのにくたいの一部には
どうしても消えぬ臭い所がある
それがにんげんが神でない印だ
ゆるしてやれ いたわってやれ

平成元年七月書 八十八翁



   思い出の記
 
原田種夫

 ここに、昭和九年四月、白亜二階建て総ガラス張りの茶房「ブラジレイロ」が開店した。
階下中央に広い噴水があり、マーブルまがいの円卓と、真紅レザー張りの椅子が程よく並んでいた。
ここで博多人は珈琲の旨さを知った。わたしも連日通ったが、いつしか店は、若き我ら文学仲間の憩いの場となった。
 ここで、昭和十六年三月十五日夕べ、間に合うよう西下された北原白秋先生御一家を迎えて、わたしの処女小説集『風塵』の出版記念会が開かれた。先生は、わたしと妻を、にこやかに祝福して下さった。
 その翌々日、十七日、「海道東征」(交声詩曲)によって「福岡日日新聞文化賞」(現在の西日本文化賞)を受賞。式後、柳川で海道東征記念多磨柳川大会、のち日向、豊後各地を巡歴された。哀しい哉 これが、先生最後の九州入りとなった。
 わたし達の第二期『九州文学』は、ここに文学仲間が会合し文学を論じ合った。その熱っぽい文学的雰囲気の中から派生したものだ。昭和十三年六月、福岡日々新聞社(西日本新聞社の前身)の学芸部長黒田静男氏は、硝煙の匂い漂う時代を踏まえ、わたしと、山田牙城の『九州芸術』秋山六郎兵衛、林逸馬らの『九州文学』矢野朗らの『文学会議』火野葦平、岩下俊作、劉寒吉らの『とらんしっと』四誌の大同団結を実に熱心に提唱された。
 迂余曲折を経て大同団結成り、同年九月、第二期『九州文学』が出た。以来、戦時中は強権の弾圧に屈せず、苦難の道を辿り、いちおう九州の文学拠点、文学道場の役割を果たしたとして昭和五十八年極月休刊号を出して四十五年の歴史を閉じた。わたしは、ブラジレイロを第二期『九州文学』の原郷(ルーツ)と考える。店は昭和十九年に強制疎開になった。

那珂川通り沿いに「川丈旅館」がある。


 明治40年(1867年)7月31日、与謝野鉄幹ら5人は博多に着き川丈旅館に1泊した。

「川丈旅館」の前に「五足の靴」文学碑があった。


旅籠屋の名を川丈といひしことふとおもひ出てむかし恋しむ

吉井勇の歌である。

新詩社の与謝野鉄幹を初め北原白秋・木下杢太郎・吉井勇・平野万里の九州路の旅は、紀行文「五足の靴」に綴られている。その第一夜を博多のこの旅館で過ごしたのは明治四十年七月三十一日。わが文壇に南蛮文字の花が繚乱と開いたのはそれからである。

昭和41年(1966年)、 『五足の靴』 60周年記念に建立。

旅をしていると、思いがけないものに巡り合う。

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