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私の旅日記2015年

鳴渡観音〜芭蕉の句碑〜
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朝倉市秋月に鳴渡観音がある。


鳴渡観音


無住の寺である。

 音声寺真言宗鳴渡山南福院と号す。古心寺艮(ウシトラ)にあり。石体の観音あり。秋月種実の家臣に惠利内蔵助と云う者あり。本より武功もありしが、天正十五年の春、秀吉公九州征伐せんとて下向しまたふよし風聞あり。秋月種実は無二の嶋津方にて偏に篭城の用意をせしかば、先いつはりて秀吉に降参の使者を上せ、その軍勢をうかがひ、敵の様を見るべしとて内蔵助を指遣しける。内蔵助安芸国広崎にて秀吉公に行合、則陳所に伺候し、秋月種実が使のよしを申上る。浅野弾正是をとり次、秀吉公聞たまひ、 内蔵助に対面有て、 秋月は嶋津と無二の一味たるよし、其聞えあり。嶋津合体の志を翻し、吾身方に参るべきとの使ひ尤なり。さあらば、筑前筑後両国を充つべし、汝急ぎ馳下て、此むねを秋月に申べしとの仰にて、御腰物を下されける。内蔵助急ぎ秋月に下り種実に此由を申、且つ秀吉公の軍粧盛なるあり様、 大軍のいかめしき事を告て、降参致べしと申ければ種実大にいかり、汝は秀吉に謀られけるよな。吾は嶋津と七代までの知音なれば其義を変じいかでか秀吉には馬をつなぐべき、いと片腹痛き哉とぞ笑ひける。内蔵助此由を聞秀吉公の勢ひ敵し難き由をつぶさに語りければ、 種実及家臣等皆是を聞てあざけり偏に内蔵助が臆病にて、かくはいふぞとわらひける。内蔵助是を聞、以後に思知べき事ながら、当時の面目を失ひける事をいきどほり、此石に踞(コシカケ)自殺しぬ。其石今は堂の中にあり。高二尺ばかり。是を本尊として観音と号す。誠に此石は忠臣の踞て自殺せし石なれば、心ある人は哀を催すべき事也。され共是を観音として拝するは理なき事なりし。

 観音堂の前に小川の流れありて常に水のなる音あれば、鳴音(ナルト)と名づけ侍りしにや。(筑前国続風土記より)

甘木市教育委員会

山門の左手に芭蕉の句碑があった。


観音のいらか見やりつ花のくも

出典は 『末若葉』 (其角編)。

貞亨3年(1686年)、芭蕉43歳の時の句。

寛政5年(1793年)10月12日、芭蕉の百回忌に法師芝風が建立。

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