このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
私の旅日記
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2014年
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水路
〜北原白秋生家〜
三柱神社
から北原白秋生家まで水路沿いの道を行く。
城堀水門
並倉
明治40年(1907年)8月1日、
与謝野寛
、北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、平野万里の5人は白秋の家に泊まった。
筑後の柳河まで来た。海を控へて水田と川との多い土地だ。北原氏に宿る。即ち我等が一人なるH生の家だ。H生の一家は東京から客人を連れて長男が帰ると云ふので、室内の装飾やら、寝具の新調やら、非常の騒ぎをして歓待の準備が頗る整頓して居る。それで我らに面会のため他郡から出掛けて泊り込む者もあるので、台所では祭礼の日のやうな混雑だ。裏の幾十間と続く酒倉では、多くの倉男が眠むたげな調子で唄ひながら、渋を採るため青柿を呑気に臼で舂く。宛
(さなが)
ら母屋の騒ぎとは別世界だ。
「五足の靴」
(潮)
8月16日、5人は再び白秋の家を訪れ2泊する。
東京からは早く帰れと云ふ、そこへ旅費も何うやら心細く成る。折角思立つたことだが薩摩大隅に遊ぶことを断念して帰途に上る。で再び筑後の柳河に来て沖の端の北原氏宅に二泊する。
「五足の靴」(みやびを)
北原白秋生家
修学旅行の生徒がいっぱいで、入れなかった。
歴史民俗資料館(白秋記念館)
北原白秋
は明治18年1月25日、柳川市沖端
(おきのはた)
の造り酒屋を営む商家に生まれました。白秋は中学伝習館(現高校)に学び早稲田大学英文科予科に入学。号を射水と称し、
若山牧水
・中林蘇水らと早稲田の三水と称されました。明治42年、『邪宗門』をあらわし、その2年後に『思い出』が出版されるや、たちまち世の賞賛をあび、詩壇に確固たる地位を築き、近代日本の詩聖とうたわれるようになりました。
生家は、昭和34年の大火で大部分が焼失しましたが、昭和44年11月、「北原白秋生家保存会」により復元。白秋の文学資料や遺品を展示し、一般に公開を開始しました。また昭和60年には、白秋生誕百年記念事業として敷地内に歴史民俗資料館(白秋記念館)を開館。柳川の歴史・民俗から白秋の世界までを展示室ごとに構成した資料を公開し、白秋を深く理解する上でも欠かせない資料館となっています。
北原白秋生家は、昭和43年10月、福岡県史跡に指定されました。
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