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私の旅日記2015年

須賀川牡丹園〜碑巡り〜
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須賀川市牡丹園の国道118号沿いに須賀川牡丹園がある。


いつもは通り過ぎるので、今日は立ち寄ってみることにした。

ふくしま緑の百選

須賀川牡丹園と乙字ヶ滝の緑

昭和60年6月選定
主唱/福島民報社・福島県緑化推進委員会

園内に入ると、 北原白秋の歌碑 があった。


須賀川の牡丹の木(ぼく)のめでたきを炉にくべよちふ雪ふる夜半に

門人木俣修書

 出典は『牡丹の木(ぼく)「黒檜」以後』。昭和18年(1943年)、河出書房発行。

  北原白秋 が晩年に眼を煩い悩んでいたころ、当園の元園主柳沼源太郎が知人を通して贈った牡丹の木(枯木)で焚火をし感激した折5首のうちの一首である。

 詞書は、碑の裏面に刻してある。

碑の裏面

 牡丹の季節が過ぎて、月餘になつた。みちのくは白河の關にちかく、須賀川の牡丹は木の古いので知られてゐるが、このほどその園主のしるべから焚木としてそのひとくくりを送つて来た。冬夜牡丹の木を焚くといふことは、話には聞いてゐたが、それは何といふ高貴な雅びかと思はれる。眼を病む今の私にはいみじき贈りものでないことはない。

  爐にくべて上無きものは木(ぼく)にして牡丹ぞといふにすべなほほゑむ
  須賀川の牡丹の木(ぼく)のめでたきを爐にくべよちふ雪ふる夜半に
  牡丹の黒木さしくべゐろりべやほかほかとあらむ冬日思ほゆ
  この束のそこばくの木(ぼく)色にして牡丹けだしや昨(きそ)匂ひける
  茶の料(しろ)と父は牡丹の木(き)を焚きてなに乏しまむ我やわびつつ

季節外れの牡丹園は人も少ない。


原石鼎の句碑


日をつゝむ雲に光や牡丹園

 石鼎は、飯田蛇笏・ 村上鬼城 ・前田普羅と並ぶ大正時代の著名俳人である。元園主柳沼破籠子(源太郎)は石鼎に師事していた関係から数次にわたり来園し、牡丹を詠み、その句は数十を数える。

 この句は大正11年の作である。

 句碑の字は石鼎未亡人コウ子の筆である。

碑 陰

 故原石鼎は大正時代に俳誌『ホトトギス』にて活躍し、東京大阪の各大学に学生俳句の指導に当り、その後俳誌『鹿火屋(かびや)』を主宰し、天才俳人として瞠目された著名の俳人である。

 大正11年より当地須賀川俳壇と交流を深め、牡丹園主柳沼破籠子・桔槹吟社の矢部榾郎・道山草太郎は石鼎門下となり、須賀川俳壇の今日をなさしめたのである。

 石鼎は特に牡丹園を愛され、昭和11年以来6回も来遊され、その都度牡丹の句を発表して全国俳句会にその名を広められたのである。

 碑面の句は夫人コウ子の書にて、桔槹吟社では石鼎先生の遺徳を偲び、牡丹園内にこの句碑を建立することになったものである。
(萌子記)
   昭和54年5月12日建立

桔 槹 吟 社
須賀川市大字浜尾
碑寄進   句集土塊出版記念水野爽円当年80才

原石鼎他3俳人の句碑


夜の牡丹落花踏まじとして立てり
   石鼎

北斗祭るかむなぎ心牡丹焚く
   破籠子

青帝のここだく雛をかへす日ぞ
   榾郎

小鳥来るや思ひはるけきうろこ雲
   草太郎

 俳人原石鼎に師事した元牡丹園主柳沼破籠子と当須賀川の矢部榾郎・道山草太郎の作である。

柳沼源太郎翁の像


明治8年7月6日生 昭和14年12月2日没
 三代目園主柳沼源太郎翁は、幼いときから俊敏壮大の気風をもち、青年時代には上京し農学を修めて帰り、この牡丹園に一生を捧げた人である。牡丹の栽培に寝食を忘れたとまで言われた人で今日の牡丹園の基礎を築き、その努力と文化財の価値が認められ、昭和7年国の名勝に指定された。傍ら俳諧にも志し破籠子と号し、俳人原石鼎や小説家吉川英治など多くの文人墨客との交友も深く知識人としても知られている。

 この胸像は、去る昭和50年4月29日挙行した(財)須賀川牡丹園保勝会創立20周年記念事業として翁の偉業を顕彰し建立したものである。制作者は郷土出身彫刻家、日展会員佐藤義重先生(東京在住)、題篆撰文は当時の須賀川市長澤田三郎氏である。

碑 陰

 幼にして俊敏壮大の気宇あり長じて東都に農学を修め帰りて父祖代々の牡丹園に取り組む傍ら俳諧に志し破籠子と号す現牡丹の旺なるは翁の丹精に負ふ所多し来園の文人墨客をして感嘆措く能はざらしむ閑雅静寂の環境亦以つて翁の俳味の齎すものにして吾等後人愧死するに足る些か讃仰の微意を捧げ園内の形勝の地に胸像を安置す翁よ四季朝夕見守りて莞爾たれかし

破籠子の句が刻まれている。

園主より身は芽牡丹の奴かな

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