このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
私の旅日記
〜
2012年
〜
長沼城址
〜中山義秀の文学碑〜
須賀川市長沼日高見山に長沼城址がある。
千代牛臥趾
市指定史跡
長沼城址
(千代城・牛臥城)
文応元年(一説に南北朝時代ともいう)長沼氏が、この地に築城したのが起源というが、明らかではない。
その後戦国時代、ことに永禄3年(1560年)頃より、長沼をめぐる南奥の戦国大名伊達・二階堂・葦名氏の激突が続いた。
遂に永禄9年(1566年)葦名領となり、葦名盛氏の家臣新国貞通の守城となった。以後、長沼城は、葦名氏会津防衛および仙道攻略の拠点となった。
天正17年(1589年)芦名氏滅亡後、新国氏も伊達氏に屈服。翌18年奥羽仕置のため、白河口より入った
豊臣秀吉
が、8月7日長沼城に宿営している。この時蒲生氏郷の家臣、蒲生郷安や蒲生主計が長沼城主となった。
慶長3年(1598年)上杉領となり、信州長沼城より島津忠直が移城し、同5年の関ヶ原の戦いには、長沼城が上杉軍の前線基地となっている。慶長6年再び蒲生領となり、蒲生郷治・玉井数馬介が城主として配備されたが、元和元年(1615年)の一国一城令により、戦国の風雲に耐えた長沼城は、栄光の幕を閉じた。
須賀川市教育委員会
中山義秀の文学碑があった。
山間の小さな城下町に初秋の風のおとづれを聞くやうになった
『碑』より
1962年、建立。
1938年、中山義秀は長沼町を舞台にした『厚物咲』で第7回芥川賞。翌年『碑』を発表。
本丸跡に日高見稲荷神社がある。
芭蕉の句碑があった。
雨おりおり思ふ事なき早苗哉
出典は『木曾の谿』(岱水編)。
「
岱水亭影待に
」と前書きがある。
岱水
は江戸深川の芭蕉庵の近くに住む。姓氏不詳。生年不祥。
「影待」は「日待ち」に同じ。前夜から潔斎して翌朝の日の出を拝むこと。
『蕉翁句集』
(土芳編)は「貞享四卯ノとし」とする。
長沼城址から見下ろす。
ふくしま緑の百景
長沼城跡のサクラ
嘉永5年(1852年)1月28日、吉田松陰は長沼を経て勢至堂に宿す。
牧ノ内に至り便道を取ること一里、長沼に出で大道に從ふこと二里、勢至堂に宿す。行程七里。
『東北遊日記』
「私の旅日記」
〜
2012年
〜に戻る
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください