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私の旅日記
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2014年
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西行塚
〜芭蕉の句碑〜
恵那市長島町中野に西行塚があるというので、行ってみた。
恵那から
中山道
を行くと、西行坂の右手に西行苑があった。
西 行 苑
西行苑は、平安時代末の高名な歌人
西行
(法名円位、俗名佐藤義清1118−1190)をしのんで整備された公園で、ここには西行が葬られたという岐阜県指定史跡西行塚(五輪塔が立つ)や、西行の歌碑、芭蕉の句碑が並んでいます。
定説では、諸国を行脚した西行は、晩年になって河内国(大阪府)弘川寺に身を寄せ、文治6年(1190年)2月16日に亡くなったといわれています。
しかし、全国には様々な形で西行の伝説が残されており、その終焉の地にしても十を下らない数の場所が知られています。この恵那市においても古くから西行の伝説がいくつか知られています。その伝説の一つによれば、西行は、諸国行脚の途中、この地に立ち寄り、竹林庵を結び3年暮らしたという。西行は、そこで自分の死期を悟り、自分が死んだらその遺骸をこの中野坂に埋葬するよう村人に頼んだ。そして建久9年(1198年)2月14日に亡くなり、村人たちは遺言通りに中野坂の傍らに西行を埋葬し、五輪塔を建てたという。
事実はともあれ、富裕な北面の武士(院を警護する武士)で妻子もあった西行が、すべてを投げ捨て、僧となって諸国を行脚し、数々の歌を詠んだ(新古今和歌集に94首が入る随一の歌人であった)。こうした西行の人となりが、多くの人々の共感を呼んだり、あるいはある種の憧れにも似た気持ちを生み、それが各地に残る伝説となったのではないでしょうか。
恵那市教育委員会
貞亨3年(1686年)閏3月、大淀三千風は西行塚で句を詠んでいる。
○かくて太田の渡大井里西行塚にて。
○菫獨立とまりつれ西行塚。
『日本行脚文集』(巻之六)
芭蕉の句碑
西行のわらじもかかれ松の露
出典は
『笈日記』
(大垣部)。「画 讃」と前書きがある。
元禄2年(1689年)9月、芭蕉が『奥の細道』むすびの地大垣に滞在中の句とされる。
西行の歌碑
待たれつる入相のかねの音す也あすもやあらばきかむとす覧
『新古今和歌集』
(巻第18雑歌下)に収録の歌である。
五輪塔
伝西行塚
恵那市の市街地を一望できる小高い丘の上に築かれたこの塚は、歌聖西行法師の供養のために造られたといわれています。小さな塚の上には、高さ約1.4mの五輪塔が立っており、形式的には、室町時代末期のものと推定されます。
西行がこの地で入寂したという伝説は古くからあり、慶長19年(1614年)に書写された当市大井町の長国寺に伝わる『長国寺縁起』に終焉の様子が細かく記されています。
西行塚は、太田南畝(蜀山人)の旅行記『壬戌紀行』(1802)や秋里籬島の『木曽路名所図会』(1805)など、江戸時代の出版物に登場し、古くから中山道の名所の一つとして有名で、今も大切に祀られています。
恵那市教育委員会
市街地を一望
正面に恵那山(2,190m)が見える。
安永9年(1780年)3月14日、蝶夢は木曽路を経て江戸へ旅をする途中、西行坂を下っている。
十二日、空くま無し。細久手・大久手の間の山道を上り下る、十三峠とかいふ。西行坂にその上人の塔あり。国々所々に西行庵・西行水など申所の多く残れる風雅の余光、申も今更なるべし。いにしへ唐土に蘇東坡の経過せし所を、後の人「来蘇」と名付てその来りし事をみめある事にせしためしならし。大井の駅より日くれかゝりて、夜に入りて中津河につく。
『東遊紀行』
天明8年(1788年)3月4日、蝶夢は木姿を伴い江戸へ下る途中で西行坂を下る。
西行坂、此所伊勢京道の別、是より木曾の本街(道)なり。太田よりこゝまで、道十三里十二丁かや。十三峠あるよし。伏見・御嶽・細久手・大久手といふ所は通らず。西行坂にて、
歌人の名残の雪や杖の先
『富士美行脚』
享和2年(1802年)3月27日、
太田南畝
は江戸に帰る時に西行坂を下っている。
松の間をゆきて六七町も下る坂を西行坂といふ。左の山の上に櫻の木ありて、西行の塚ありといふ。圓位上人は讃岐の善導寺に終りをとりぬときくに、こゝにしも塚ある事いかゞならん。折から谷の鶯の声をきくもめづらしく、頃は彌生の末なるに遺覧在
レ
野といふ事も引いでつべし。
『壬戌紀行』
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