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私の旅日記2011年

「白根魚苑」〜金精神社〜
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 片品村東小川の 「白根魚苑」 (HP)に牧水の歌碑と芭蕉の句碑があるというので、行ってみた。


「白根魚苑」の入場料は310円。

平日は白根温泉「加羅倉館」の入浴料410円とセットで500円。

お食事処「牧水」の前に 「若山牧水の歌碑 があった。


時知らず此処に生ひたち枝張れる老木を見ればなつかしきかな

大正十一年十月廿七日 此処に立ちて 牧水

 大正11年(1922年)10月27日、若山牧水は 『みなかみ紀行』 の旅で 白根温泉 の宿屋を出て、丸沼に向かった。

「樅(もみ)、栂(つが)、檜、唐繪(たうび)、黒檜(くろび)、……、……。」

 と案内人はそれらの森の木を數へた。それらの峰の立並んだ中に唯だ一つ白々と岩の穗を見て聳えてゐるのはまさしく白根火山の頂上であらねばならなかつた。

   下草の笹のしげみの光りゐてならび寒けき冬木立かも

   あきらけく日のさしとほる冬木立木々とりどりに色さびて立つ

   時知らず此處に生(お)ひたち枝張れる老木を見ればなつかしきかも

昭和45年(1970年)6月、建立。

大悟法利雄の『牧水歌碑めぐり』によれば、全国で57番目の 牧水碑 である。

「白根魚苑」は片品村東小川の千明家が経営していた。

10月26日、若山牧水は千明家を訪れている。

 そろそろ暮れかけたころ東小川村に入つて、其處の豪家C—を訪うた。明日下野國の方へ越えて行かうとする山の上に在る丸沼といふ沼に同家で鱒の養殖をやつてをり、其處に番小屋があり、番人が置いてあると聞いたので、その小屋に一晩泊めて貰ひ度く、同家に宛てゝの紹介状を沼田の人から貰つて來てゐるのであつた。主人は不在であつた。そして内儀から宿泊の許諾を得、番人へ宛てゝの添手紙を貰ふ事が出來た。

「其處の豪家C—」が千明家である。

「白根魚苑」に金精神社がある。


 金精峠に車道が開さくされて以来、峠を越す人がめっきり少なくなり、有名な金精神社も峠の頂上におき忘れられてしまいました。訪れる人とてなきままに朽ち果てさせてしまうのは、なんとも忍びませんので、ここに社を別に建てて祭ったのです。

 この社は今から凡そ350年前に武蔵の国 忍藩 (現在の埼玉県行田市)の城主禄高8万石阿部豊後守忠秋が領内の五穀豊穣を祈願して忍に建立したもので多粕閣と名付けられていました。

 忠秋は三代将軍家光の命で墨田川の濁流を騎馬で乗りきり、一躍勇名をとどろかせた徳川普代の大名でした。その多粕閣をいま忍から此処に移築復元して金精神社とした次第です。

以上

金精神社の手前左手に 芭蕉の句碑 があった。


涼しさやすくに野松の枝のなり

出典は 『笈日記』 (支考編)。

 元禄7年(1694年)閏5月、伊賀上野の雪芝亭で巻かれた歌仙の発句。

以前は千明家の庭に置かれていた。

 よくある句碑といってしまえばそれまでだが、利根郡片品村東小川字中井の千明康氏邸林泉中の一基は三尺に三尺の自然石で彫りがよい上に古風のスミ直しが施されていて、一見物すごい感じのする代物である。処を得てないのが惜しい。東小川には文化初年既に江戸の文来庵(一世)雪万の指導を受けた多数の俳人があり、俳カイの江戸直結は相当早い方だがこの碑を建てた南広・一田はずっと後の人であろう。元禄七年「笈日記」の句。

『上毛芭蕉塚』(本多夏彦著)

もとは下小川の路傍にあったもの。

慶応3年(1867年)5月、一田・雪童は 芭蕉の句碑 を建立している。

 千明家は代々藤右衛門を襲名したが、その幾代目かの藤右衛門は、号を雪蹄と称し句をよくし小林一茶とも親交があつた。現に千明藤一氏の蔵する一茶の書簡には

      御令息の生長を祝ふ

   めでたさやつんつるてんの古袷   一茶

とあり、懇親の情濃きものを感ずる。

『片品村史』

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