このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
与謝蕪村ゆかりの地
与謝蕪村宅跡(終焉の地)
京都市下京区仏光寺通烏丸西入釘隠町に啓明商事株式会社がある。
啓明商事の前に「与謝蕪村宅跡(終焉の地)」の標柱があった。
与謝蕪村宅跡(終焉の地)
蕪村は元年(1716年)、摂津国東成郡毛馬村(現大阪市都島区毛馬町)の豪農の家に生まれたといわれている。20歳の頃、一人江戸に下り早野巴人の内弟子となり俳諧の道を歩む。27歳師巴人が没した後、江戸を離れ関東・奥羽地方へ長い旅に出る。関東、東北地方を遊歴する事約十年蕪村は寛延4年(1751年)36歳で京都に上り浄土宗総本山知恩院の近くに居を得る。3年足らずで京都を去り、丹後宮津へ赴き浄土宗の見性寺に寄寓して本格的に画の勉強を始める。42歳で再び京都に戻った蕪村は姓を谷口から与謝と改め画を売って生活をたてる決心をし、やがて妻帯する。その後数箇所転居し、最後の住みかとなる「仏光寺烏丸西入町」に移り住み俳諧に絵画に豊麗多彩な作品を次々と生み出したのである。
蕪村の幻の日記に次のように記されている。
「安永3年11月某日(蕪村59歳の時)近くの日吉神社の角を東へ曲がって仏光寺通り途中から南へ入って奥まったところに閑静の空家ありと、とも(妻)が見つけて、またその釘隠町へ身元保証の請状も通り、急に話がきまって3日前移転する。狭いながらに前より一間多く猫のひたいの庭に緑も少々あって、画絹ものびのびと拡げられる心地なり。我が家の前で路地は行き止まり、つきあたりに地蔵尊一体おわします。あしもとに濃みどりのりゅうのひげなど生い茂る。」
注 昭和36年(1961年)までここに路地があり、地蔵尊は昭和22年(1947年)8月釘隠町町内会の総意で現在地へ移転されるまで路地の南の突き当たりにあった。蕪村宅(終焉の地)はこの路地の一番南(地蔵尊の前)に位置していた。
天明3年(1783年)12月25日、蕪村は68歳で没。
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