このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

私の旅日記2015年

福山城〜巌谷小波の句碑〜
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JR山陽本線福山駅北口の福山市丸之内に福山城がある。


いつもは新幹線で通り過ぎるだけなので、今回は立ち寄ることにした。

伏見櫓


 伏見櫓は、桁行8間、梁間3間、3層入母屋造、本瓦葺の建物で、福山城築城にあたり、伏見城松の丸東櫓を移築して建てられた。初層と二層は同じ平面で、その上にやや小さい三層を載せ、内部は階段を付け、床板敷き、小屋梁天井としている。城郭建築史上、初期の様式を残しており、伏見城の確かな遺構としても貴重である。

筋鉄御門


 筋鉄御門は、桁行10間、梁間3間、入母屋造、本瓦葺の脇戸付御門で、伏見櫓と同じく伏見城から移築された。下層の各柱には根巻き金具を付け、四隅に筋金具を打ち、扉にも12条の筋鉄を鋲打ちし、乳金具を飾るなど堅固な造りとなっている。

ともに重要文化財である。

 嘉永4年(1851年)3月13日、吉田松陰は藩主に従って江戸に向かう途中、福山を過ぎる。

一、十三日  晴。卯前、驛を發して坂を登る。坂の上に藝州領・福山領の境碑あり。坂を下り平田の中を行くこと數里、左に福山城を視て過ぐ。閣老阿部伊勢守の封なり。


月見魯南下の二之丸に 巌谷小波 の句碑があった。



桜咲く日本に生まれ男哉

桜花満開で賑わう福山城を詠んだものです。

 この句碑がある二之丸一帯は、そこに屋敷を構えていた田中八九郎(福山製紙創業者)が、大正時代に入り桜の木を植え始め桜の名所となった。詳細は不明だが、八九郎と小波が交友深かった縁で建てられた思われる。

月見魯


 月見櫓はもと京都、伏見城内にあったものを移築したものといわれ、本丸の東南隅に位置し、望楼の役割を成していた。

 明治の初め頃とりこわされたが、昭和41年(1966年)に天守閣とともに外観復原された。

天守閣


日本100名城 No.71である。

元和5年(1619年)、水野勝成は 大和郡山 城主から初代福山藩主となる。

 福山城は、西国鎮護の重責を担って入封した徳川譜代の臣、水野勝成が、元和6年(1620年)より3ヶ年の歳月を費し、陸海の要衝であるこの地に完成させた平山城である。

 総面積約8万坪(26.5ha)内外二重の濠をめぐらし、本丸には、白亜の5層6階の複合天守と多数の櫓を構築、その偉容は、全国城郭中屈指の名城とされていた。

 その後、水野5代、松平1代、阿部10代の居城となり、明治になって濠は埋められ、月見櫓をはじめ多くの櫓が取り壊され、残された天守閣・湯殿等も第二次世界大戦の戦火により焼失した。

 幸いにも、築城当時、伏見城から移築した伏見櫓・筋鉄御門は、昔日の姿を留め、貴重な遺構として重要文化財の指定を受けている。

 なお、現在の天守閣等は、昭和41年市制50周年記念事業として、市民の浄財で外観復元がなされ、城跡は国の史跡となっている。

 城名 鉄覆山朱雀院久松城

 別名 葦陽城

昭和42年(1967年)、 山口誓子 は福山城を見ている。

   福 山

枯洲より見る南面の福山城

『一隅』

福山市の 明王院 に句碑がある。

平成28年(2016年)7月1日、福山市は市制施行100周年を迎える。

御湯殿


 京都、伏見城内にあった御殿とともに移築した建物で、国宝に指定されていたが、昭和20年(1945年)の戦災により焼失した。昭和41年(1966年)に内外ともに復原したものである。

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