このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

私の旅日記2015年

王子神社〜風羅堂の句碑〜

福山市東深津町の高台に王子神社がある。


王子神社の石段


王子神社社殿


王子神社由緒

御祭神 須佐之男命・八王子

備後国風土記(紀元713年)によれば須佐之男命が朝鮮より八王子と共に帰朝し、吾等を信仰すればその子孫を疫病から守ると申されたので、深津郡の人々はこの深津島山に王子神社を建て、以て広く当地方の人々の崇敬するところとなる。

 式内社研究者、元京都学芸大学教授・文学博士・志都剛氏の説によると、 延喜式神名帳 (紀元927年)に載せられている備後国深津郡須佐能袁能神社は当社であると断定されている。

深津神社総代

町を見下すように4基の句碑が並んでいる。


一番右が芭蕉の句碑。


扇にて酒くむ影や散桜

出典は 『笈の小文』

貞享5年(1688年)、吉野で詠まれた句。

その左が野坡の句碑。


凍みちや梅は香もる風羅堂

 享保元年(1716年)、 野坡 は福山を訪れ、深津の醤油業今津屋達士・酒造業鍵屋由均らの支持を得て、風羅堂を創設。芭蕉を一世とし、野坡は二世と称した。

平成13年(2001年)11月、王子下住人建立。

次が素浅の句碑。

簔嶋の裾うつ浪や秋日和

 享保の末、野坡は福山から広島に移り、素浅は風羅堂三世となる。

 元文2年閏11月17日、三原からの福山に移り素浅を訪れる。

 元文5年(1740年)、 『桜苗』 (東西軒野橘・時々斎宜応・梅水堂沙鴎編)刊。雨声庵素浅序。梅従跋。

寛延3年(1750年)、素浅没。

最後に南河の句碑

移り来て照りや二見の望月を

安田南河は風羅堂四世を継ぐ。

南河の句

かくも世は翁追ゆく時雨哉


寛政元年(1789年)、南河没。

私の旅日記2015年 〜に戻る。



このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください