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私の旅日記2012年

頼山陽広場〜頼山陽先生詩碑〜
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竹原市中央1丁目の本川沿いに頼山陽広場がある。


頼山陽広場に頼山陽座像があった。


頼山陽(1780年〜1832年)

 頼山陽は竹原を故郷とし、名は襄(のぼる)、字は子成、幼名を久太郎(ひさたろう)と称し、山陽は号である。安永9年12月27日、大阪(江戸堀)に生まれる。父に春水(弥太郎)、母に梅シ(ばいし)(静子)(※「シ」=「風」+「思」)

 山陽は、文化・文政の江戸時代文明の最盛期に活躍した儒者である。詩文は一世を風靡し、歴史に残る代表的な『日本外史』、『日本政記』の2つの大著によって明治維新の原動力となり、日本の夜明けに多大の影響を与え、歴史家としても著名である。書も亦よくし、画・煎茶・水石の趣味など秀逸の範囲は広く、また孝心篤かったことは余りにも有名である。

 頼家は山陽の祖父惟清(住居、現在の竹原市竹原町上市)の長男春水をはじめ、春風・杏坪の3兄弟に亘って7人の優れた学者・文人を世に輩出させた。

 この座像は山陽生誕二百年を記念し、山陽の玄孫(五代目)頼新氏(京都市)所蔵の像を拡大し、日府展評議員彫刻家、南部祥雲氏によって製作されたもので、昭和55年7月19日に建立除幕が行われた。竹原人の心にはいつまでも頼山陽は生きている。山陽の功績を尊び、有志が発起人となり多数の賛同者の協力を得て日本で最初の頼山陽像をここに建立したものである。

竹原頼山陽顕彰会

台座に頼山陽の漢詩がはめ込まれていた。


   朝日山
(山陽九歳作)

上朝日山去
 朝日山を上り来る
 朝日山を登っていく
手欲摩蒼穹
 手は蒼穹を摩せんと欲す
 手は青空に触れんばかりである
山路宣匍匐
 山路は宜しく匍匐すべし
 急峻な山路は、はって進んだほうがよい
恐衝廣寒宮
 廣寒宮に衝くを恐る
 (月の宮殿である)廣寒宮にいきつくのでは
 と疑われる

頼山陽座像の左手に頼山陽先生詩碑があった。


鞭聲粛々夜過河暁看
千兵擁大牙遺恨十年磨一
剣流星光底逸長蛇

   題河中島好図   山易外史

「夜河を過る」のは、 「雨宮の渡し」 である。

   不識庵機山を撃つの図に題す

鞭声粛粛夜河を過る
暁に見る千兵の大牙を擁するを
遺恨十年一剣を磨き
流星光底長蛇を逸す

「不識庵」は 謙信 の法号。「機山」は 信玄 の戒名。

 明治43年(1910年)11月15日、 河東碧梧桐 は竹原で頼山陽のことを書いている。

 竹原は山陽の故郷である。山陽の生れた土地ではないけれども、頼家の祖先の起った所である。我輩の山陽嫌いを主人も知っておるのか、土地自慢も言わねば、春水杏坪に関することさえも更に関することさえも更に語ろうとせぬ。


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