このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

今年の旅日記

旧花田家番屋〜松浦武四郎翁の像〜
indexにもどる

留萌 から日本海沿いに国道232号(オロロンライン)を北上する。

小平町鬼鹿広富に「にしん文化歴史公園」がある。

新明紫明の句碑


こころよきものに直線燕来る

新明紫明は本名美仁。富安風生に師事。

昭和3年(1928年)、室蘭に生まれる。
昭和38年(1963年)、旭川で俳誌「青女」創刊主宰。
平成17年(2005年)9月、俳誌「青女」創刊500号を記念して建立。

松浦武四郎翁の像


 北海道の名付け親松浦武四郎は、文政元年(1818年) 伊勢国須川村(現三重県三雲村) に代々郷士であった松浦家の四子として生まれる。

 翁は27歳の春、蝦夷地探検を発起以来6度に渡り蝦夷地を案内のアイヌの人々と踏査し、詳細で実情をあますところなく書き記された地図・絵図・記録は高く評価され、探検家・研究者として、その功績は偉大である。

 翁の身長は4尺8寸(1m45cm)足の大きさは24cmと小柄ながら、その旺盛な精力と知識欲により未開の荒野を踏査・探険し、当地へも4度に渡って訪れ、鰊漁場の賑いをきわめた往時の鬼鹿の歴史を詩に残している。

 松浦武四郎は、社会科学史上・文化史上に輝く燦然たる偉人であるとともに北海道の史実を証するものとして、今もなお道民の心の中に生き続けている。

「にしん街道」の標柱


 ここ小平町は、江戸時代後期から昭和30年代に到るまで「にしん漁」で栄えた町です。

 「にしん」は身欠き鰊や数の子として食用とされ、これらは京都の「にしんそば」や東北地方の「数の子豆」「鰊の山椒漬」など全国各地に鰊食文化を育みました。しかし、多くは「〆粕」に加工され、江戸から明治時代を代表する肥料として本州へ移出され、木綿や藍などの商品作物の生産を伸ばして私たち日本人の生活を豊かにし、稲作や畑作などに広く利用され私たちの食を支えていったのです。

 小平町でにしん漁がおこなわれたのは鬼鹿地区と臼谷地区。

 鬼鹿地区には、現存する鰊番屋では最大の規模となる国指定重要文化財「旧花田家番屋」があり、経営者である親方家族の住居であると同時に、最盛期200名を超える漁夫や職人が寝泊まりする漁場の拠点となった施設で、明治38年(1805)年頃建築の代表的なにしん漁遺産です。

 さらに、明治34年(1901年)瀧川弁藏氏によって小樽から「松前神楽」が伝えられ、道南から当地鬼鹿へ来住した漁夫達によって盛んに演じられ、今も鬼鹿松前神楽保存会によって小平町無形文化財として脈々と受け継がれています。

 臼谷地区には、享保21年(1736年)、村山伝兵衛と施主銘がある小平町有形文化財「臼谷弁財天碑」があり、場所請負人として蝦夷地各地の漁場経営を担い、当時富商として全国的に知られた村山伝兵衛のこの地での活動を明らかにしています。

 江戸・明治・大正・昭和の長きにわたり、広く全国に行きわたり日本人の生活を支えた「にしん」。その「にしん」のもたらした繁栄の歴史と「にしん文化」息づくまちを結ぶ道しるべとするとともに、あらたな観光ルートとして確立し地域の活性化につなげるために、この「にしん街道」の標柱を設置します。

重要文化財旧花田家番屋


 重要文化財と指定された本遺構は、旧天登雁村(現在地)の鰊漁家花田伝作氏によって建築されたものである。花田家は屋号を○二といい最盛期には18ヶ統の鰊定置網を経営する道内屈指の鰊漁家であった。この番屋はその本拠として、5ヶ統の漁夫の外船大工、鍛冶職、屋根職、曲師等総勢200人前後の人を収容していたもので、その空間を生み出している木材は、すべて地元「大椴」の山より切り出し、三半船で海上を運び、木挽きの手によって製材されたものである。

 当番屋は道内に現存するものでは最大の規模を有し、木割りは大きく豪壮であり、空間は雄大である。玄関から奥に土間を通し、その北側に親方居住部分を、南側に漁夫の生活部分をもうけ、漁夫の寝台(ねだい)を中二階に備えて三段とし、その機能と合理性を求め、俗に番屋と呼ぶ鰊漁家特有の平面構成である。

 小平町では、重要文化財の指定と共にこれを買収し、3年の年月と約1億9千万円の費用を投じて解体修復したもので既に稀有となった古民家建築物鰊番屋の代表的遺構である。

小平町教育委員会

群来(くき)る 春告魚


 ニシンとは漢字で「春告魚」「鰊」「鯡」と書き、カドイワシとも言う。イワシ科で寒流系の魚である。

 毎年春になると、ニシン曇りの海に大きな群れをなして到来。浅瀬の海草に産卵する光景は月夜に照らし出され、牛乳を撒き散らしたようになる。

   これを″群来る″と言う。

 学校には赤旗が上がり、水揚げを競う浜辺はモッコを背負う女と子供が主役である。北の日本海は凪が短く荒れると怖い。

 やがて雪解けの春が訪れ、ゴメ(カモメ)が舞う頃、今もなお「一攫千金、夢よもう一度」と氏神様に手を合わせる人もいる。もはや永遠に幻の魚と化してしまったのであろうか・・・・・

 此処に開村120周年を記念し、文化遺産である「花田番屋」と共に、この文化を後世に残すため像を送るものである。

平成10年(1998年)9月、東京鬼鹿会寄贈。

層雲峡温泉 へ。



このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください