このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

今年の旅日記

神居古譚〜九条武子の歌碑〜
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旭川市神居町の国道12号沿いに神居古譚がある。

クッ・ネ・シ 神居岩
Kut−ne−sir
岩崖・になっている・山


アイヌの守護神サマイクルが獣皮を乾かした所。

神居古潭

地名の由来

 カムイコタンはアイヌ語でカムイ(神)の居るコタン(里)を意味し、この神はニッネカムイ(魔王)をさします。奇岩怪石が多く舟航の難所だったので、「魔の里」と呼ばれていました。

神居大橋


神居大橋のあゆみ

 つり橋が最初にかけられたのは滝川から旭川まで上川鉄道が開通した明治31年(1899年)で、明治21年に神居古潭に移住した安藤彦松、同24年に移住した岡和田仁太郎らが協力して建設したといわれています。現在の神居大橋は、漸く神居古潭の景勝が有名になると共に神龍土功組合が灌漑工事の資材運搬のために大正14年(1925年)に建設したもので、現在まで数度にわたって改修されています。

パラ・モイ
Para−moy
広い・湾


明治40年(1907年)4月16日、河東碧梧桐は 旭川 から神居古譚に着く。

 四月十六日。雨。

 連日の雨で、けさは霙さえ交る。旭川に来てとうとう太陽を見なかった。

 十時五十五分出発。汽車は非常な人ごみである。神居古譚下車。針金で板をつづくった釣橋のゆらゆら動くのを渡って、鉱泉宿に着いて昼飯を喫した。石狩の大河が左右に肉薄する山に狭められて、激流となり、奔湍(ほんたん)となる。激流奔湍の間に磊カイ(※「石」+「鬼」)たる岩石が介在して、水は吼え流れは矢を射る。特に奇とすべきではないが、また豪壮な景たるを失わぬ。


神居大橋を渡ると、木陰に九条武子の歌碑があった。


たぎつ波ましろう白う岩にちる神居古潭のくもれる真昼

 九条武子(明治20年〜昭和3年)は大正期を代表する女流歌人のひとりで、九条良致(よしとも)男爵夫人として貧しい人々の巡回施療などに尽くした名流婦人として知られています。主な歌集として「金鈴」「白孔雀」等があります。

 旭川には大正11年と昭和2年に訪れ、神居古潭でこの歌を詠んでいます。

 書は、上田桑鳩によるものです。

  旧神居古潭駅舎


 明治23年、北海道の内陸開発の拠点として旭川村が設置され、明治31年7月16日には空知太(現在の滝川)から 旭川 まで鉄道が開通した。

 当駅は、明治34年12月3日に神居古潭簡易停車場として設置、明治36年5月15日に神居古潭駅となった。

 この駅舎および便所は、明治43年に建設された。その後、大正末期から昭和初期にかけて1度ないし2度の増改築が行われたと推定されるが、建設当初の遺構はよく残されている。

 昭和44年9月30日、函館本線の納内〜伊神駅間がトンネル化されたことにより、神居古潭駅は廃駅となったが、明治期の数少ない駅舎建築として貴重であることから、平成元年に廃駅時の姿形をもとに復元を行った。

 建物は、典型的な小規模駅舎建築であると同時に、明治期における西洋建築意匠導入の特徴を残す数少ない現存例であり、道央・道北の鉄道発展史を考える上でも貴重な例である。

旭川市教育委員会

SL展示


 昭和6年(1931年)5月28日、 与謝野寛・晶子 夫妻は札幌から旭川へ向かう途中で神居古潭を訪れている。

大雪の山は見ねども先づしろし神居古潭のえぞ櫻ども

まだ知らぬちからも見せて山深き神居古潭を濁流の行く

「北海遊草」

小林孝虎の歌碑


   神居古潭幻想賦

サマイクルに首級うたれし鬼神の身は立ちながら厳になりつ
刎ねられし鬼神の首と恐れ言ふ向岸の岩もすでに苔むす
ニチネカムイの足跡ふかき凹穴かたたざまにして昏きをのぞく
蝶鮫の不意にもよぎるまぼろしを消しがたくゐて鶺鴒あそぶ
蛇も蜥蜴もここに棲みつぎて王城の址の夏草あをし
チャシ跡の昼しづかなる木の下に瞑れば聴こゆ矢叫びのこゑ
コロポックルの裔ほろびたるかなしみか叢低く風はそよげり

静かで、いい所だった。

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