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今年の旅日記

トラピスト修道院〜三木露風の詩碑〜
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トラピスチヌ修道院 に行ったから、トラピスト修道院にも行ってみた。

駐車場前の庭に三木露風の詩碑があった。


日は輝やかに沈黙し
時はおもむろに移り行けり
美しき地上の断片の如く
我が命は光の中にいきづく

三木露風

 明治22年(1889年)6月23日、兵庫県龍野市龍野町上霞城101番地に生まれる。幼名操。後早稲田大学、慶応大学に学ぶ。詩集「廃園」(明治42年9月刊行)によって日本詩壇で注目され、「白き手の猟人」(大正2年9月刊行)で象徴詩界の頂点に立ちました。

 大正9年5月から同13年6月までトラピスト修道院の文学講師として4年間居住し、その間大正11年キリストの復活祭に夫人と受洗しました。

 昭和39年12月21日、東京三鷹市で交通事故に遭い、同29日死去、カトリック吉祥寺教会で葬儀。享年75才、法名穐雲院赤蛉露居士。昭和40年1月16日、勲四等瑞宝章を追贈。

 ※童謡「赤とんぼ」は修道院の文学講師時に作詞されました。

北斗市教育委員会

 2005年10月1日、龍野市は揖保郡新宮町、揖保川町、御津町と合併して「たつの市」となった。

辛夷の花が咲いていた。


厳律シトー会 灯台の聖母大修道会

 明治29年(1896年)、「祈祷と労働とをもって直接、神に奉仕し、自己の成聖と社会の幸福」を目的とし、日本で最初の男子修道院であるこの修道院が建てられた。最初の建物は白ペンキ塗り細長い木造建築であった。修道院からは日に何度も鐘の音が流れてくることから、村民たちは修道院のことを「ガンガン寺」と呼んでいた。当初の修道士はフランス人5名、オランダ人2名、カナダ人とイタリア人1名の9名であった。創立当時は荒地であったこの地を開拓し、農耕・牧畜・酪農に力を入れた。明治35年(1902年)にオランダからホルスタインの種牛を輸入し、増殖した乳牛はのちに南北海道一帯に広がっていった。南北海道の酪農の原点ともいえる。

 現在の建物は最初の修道院が明治36年(1903年)に焼失したため、明治41年(1908年)に建てられた7ものである。この時に使われたレンガは野幌で作られて運ばれていたが、輸送が間に合わなくなった。そのため現地生産となり、現在の石別中学校が建っているところから良質の粘土がとれたため、煉瓦を作ったと伝えられている。

ゲート


修道院内の見学は予約制になっております。

男子に限ります。

特に見学したいわけでもないが、「女人禁制」とは驚いた。

大正14年(1925年)、 北原白秋 はトラピスト修道院を訪れている。

  トラピスト修道院の夏

   正 面

烏賊乾してただ日(ひな)くさき当別(たうべつ)の荒磯ありその照りよ今は急がむ

修道院へ行く道暑し絮しろき河原ははこも目につきにけり

      女人禁制の札あり

影面(かげとも)は朝から暑し来て通る修道院正門のみそ萩の花

修道院の玄関の前に立ちにけり麦稈帽をとりつつ我は

『海阪』

トラピスト修道院


トラピスト修道院の沿革

 明治29年(1896年)にフランスから数名の修道士が来日して、津軽海峡を眼下に臨む当地にトラピスト修道院を設立しましたが、トラピストの歴史は古く、その起源は11世紀にまでさかのぼります。

 聖ロベルト(1018年〜1111年)は、現在のフランス・シトーの地に修道院を創設し(1098年)、ここからシトー修道会が生まれました。

 そして、1664年、シトー修道会に属するトラップ修道院(フランス)で、より厳格な生活を望む改革運動が起こり、この流れを汲むものをトラピストと呼ぶようになりました。

 トラピスト修道院はカトリック教会に属し、日本国内には7つの修道院(その内、5つは女子でトラピスチヌとして知られています)を持ち、国外には137の修道院(その内、50は女子)があります。聖書の教えと、聖ベネデイクト(480年〜547年)の修道戒律に従い、「祈り・労働・聖なる読書」を中心とした観想生活を送っています。

津軽海峡を眼下に臨む。
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