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翁 塚



羽黒山参道〜「三日月塚」〜

  二の坂茶屋 から羽黒山参道を更に登ると、右手に「芭蕉翁 三日月塚」があった。


これは道標であろう。

芭蕉塚 市有形文化財

江戸中期、鶴岡俳人連衆が芭蕉の詠んだ“ 涼しさやほの三日月の羽黒山 ”に因み、永くその面影を慕おうと三日月塚と称し建立した。

芭蕉塚
—享保15年(1730年)、佐川李夕他鶴岡俳人連衆建立。
燈 籠
—明和6年(1769年)、河上文化他建立。

芭蕉塚と燈籠


翁羽黒山留杖の折、羽黒の
「涼しさや・・・・・」の発句の処
塚碑の両側に小燈篭あり

向右、
右側 ひかり増せ燈篭の月も三日月の影
正面 明和巳丑季秋羽州庄内遊耕舎祇松
向左、
正面 三日月塚の良星雨根かたふき
最中に苔むして○○を酒掃して
左側 燈籠一基を奉侍願徳光長く傳へて
輝く我希のみ

芭蕉塚


芭蕉翁

山形県で最も古い翁塚であろう。

享保15年(1730年)8月、 『三日月日記』 (支考編)。自序。

   追加三日月日記之事

  図司呂丸 か翁か遊杖之翌々年元禄四年に俳諧修行の爲め松島を経て江戸に出て深川なる芭蕉庵を訪ひける時紀念として翁か書きおける三日月の一巻を乞ひうけ幸便に托して羽黒なる家に送られそれより京洛をさして登られけるか美濃の国谷汲なる華嚴寺に旧知会覚師を訪ねて滞留せしか病を受けて遂に同五年二月二日其の地に客死せらる。

 然るに先きに羽黒に送られたる此一巻は歿後の筐となりたるか後年同し羽黒なる何竹江といふ人の有となりしか後又宝永中鶴ヶ岡なる藩吏佐川勘藏俳名李夕なる人の手に渡りたり。其の頃美濃の支考の肝煎にて此巻を主として一編を刊行せしを三日月日記と云ひ後李夕歿後市に売品に出てたるを平田白之といへる人(鶴岡市会議長平田吉郎氏先代)百金を投して購ひ求められしを子々孫々秘藏せられて今日尚平田家の名什となりぬ。

昭和十春
   芦亭記

『荘内に於ける芭蕉三日月日記 : 附・芭蕉句碑』

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