このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
『奥の細道』
〜東北〜
〜尿前の関跡②〜
小黒崎観光センター
から国道47号(北羽前街道)を行き、鳴子温泉を過ぎて、尿前の関跡へ。
去年の春
、芭蕉像が雪囲いに覆われていたので、今日は芭蕉像の写真を撮ろうと思い、立ち寄った。
車を停めて坂を下りていくと、黄釣船草
(きつりふねそう)
が咲いていた。
芭蕉像
芭蕉像の左に『奥の細道』の文学碑がある。
南部道遥にみやりて、岩手の里に泊る。小黒崎みづの小嶋を過て、なるこの湯より、尿前の関にかゝりて、出羽の国に越んとす。此路旅人稀なる所なれば、関守にあやしめられて、漸として関をこす。大山をのぼつて日既暮ければ、封人の家を見かけて舎を求む。三日風雨あれて、よしなき山中に逗留す。 蚤虱馬の尿する枕もと
一リ半、尿前。シトマヘヽ取付左ノ方、川向ニ鳴子ノ湯有。沢子ノ御湯成ト云。仙台ノ説也。関所有、断六ヶ敷也。出手形ノ用意可有之也。
一リ半、中山。
『曽良随行日記』
芭蕉は鳴子温泉の川向い、岩渕屋敷を通過し、十綱渡
(とずなわたし)
で荒雄川
(あらおがわ)
を渡り尿前の関に入ったそうだ。関守は遊佐勘解由宣春
(ゆざかげいゆのぶはる)
。
芭蕉像の右の石碑には「芭蕉と鳴子」の説明が書いてあった。
ここ、尿前の関で、通行手形(今のパスポート)を持っていなかった芭蕉たちは関守に怪しまれ、なかなか通過を許されなかったようです。ようやく関を越えてからも、山また山の難所続きで、満足な宿を得ることが出来なかったと記されています。尿前の関の前後は「道の奥」であり、「細道」であることを強く印象づける記述に満ちており、「おくのほそ道」のクライマックスになっていると言われています。
芭蕉は通行手形を持っていなかったのだろうか。尿前の関から封人の家までは、いわゆる「中山越」であるが、「山また山の難所続き」とも思えない。「封人の家」は「よしなき山中」ではない。
尿前の関跡の前に芭蕉の句碑がある。
蚤虱馬の尿する枕もと
句碑の辺りに姥百合
(うばゆり)
が咲いていた。
姥百合の群生
赤倉温泉
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