このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
私の旅日記
法隆寺
〜正岡子規〜
数十年ぶりに
法隆寺
(HP)に行ってみた。
南大門
法隆寺は聖徳宗総本山である。
元禄5年(1692年)5月10日、貝原益軒は法隆寺を通り抜けている。
十日の朝、並松を出て又法隆寺の門内にいたり、すぐに後門にいで郡山のかたにゆく。かねては初瀬をと志しつれど、道けはしく行なやむよし聞へ侍れば、笠置越におもむく。法隆寺の東に斑鳩のさとあり。今は神屋と云。斑鳩の宮のあと、道の南にあり。厩戸皇子の乗給ひし甲斐の黒駒を埋し墓あり。駒塚と云。
『壬申紀行』
中門
国宝である。
史跡
法隆寺境内
法隆寺は聖徳太子創立。およそ1400年の伝統を持つ大伽藍である。
金堂、塔を中心とする西院伽藍は、よく上代寺院の相貌を伝え、わが国現存最古の寺院建築として、極めて価値が高い、その寺院は天平19年の当寺資財帳に「方一百丈」とあり、また鎌倉時代の古今目録抄などによれば、現地域とほぼ合致している。
夢殿を中心とする東院伽藍は、天平11年行信により聖徳太子の斑鳩宮故地に創立されたが、天平宝字5年の東院資財帳に示される寺域は、現東院境内に現中宮寺をあわせた地域とみられる。
すなわち東西両院をふくむ、法隆寺伽藍の全域は、わが国上代寺院史上各種の重要史料を内包し、また斑鳩宮跡、若草伽藍などの重要遺跡をもあわせて、その歴史的並びに宗教的価値はきわめて高いものである。
三経院の左手に會津八一の歌碑があった。
ちとせあまりみたひめくれるももとせをひとひのことくたてるこのたふ
この歌は、聖徳太子千三百年大遠忌にあたる大正10年隆寺を訪れた會津八一が悠久の歳月を立ち続けた五重塔の姿に感嘆して詠んだ。
會津(1881〜1956)新潟市生
早稲田大学の東洋美術学者で歌人、書家。
拝観料が1,500円とは意外だった。
五重塔
日本最古の五重塔。
国宝
である。
金堂
国宝である。
明治28年(1895年)、
正岡子規
は法隆寺を訪れている。
法隆寺
仏舎利とこたへて消えよ露の玉
法隆寺
二句
行く秋をしぐれかけたり法隆寺
行く秋を雨に氣車待つ野茶屋哉
『寒山落木』(巻四)
鏡池の畔に
正岡子規の句碑
があった。
法隆寺の茶店に憩いて
柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺
明治28年(1895年)11月8日、『海南新聞』に掲載。
大正5年(1916年)、斑鳩吟社建立。
明治40年(1907年)、
若山牧水
は郷里の坪谷から上京の途中で法隆寺を訪れている。
雲やゆくわか地やうごく秋真昼鉦も鳴らざる古寺にして
秋真昼ふるき御寺にわれ一人立ちぬあゆみぬ何のにほひぞ
『海の声』
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