このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

新年の旅日記

小松城〜前田利常翁像〜
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小松市丸内町二ノ丸に小松高等学校がある。

小松城本丸と二の丸の跡である。

小松城

 「小松城」の資料上の初見は、天正11年(1583年)、羽柴秀吉配下の 前田利家 が、柴田勢から「小松之城」を受け取り、これを堀秀政に渡したとする書状である。秀吉の時代に村上氏や丹羽氏が居城し、慶長5年(1600年)10月より前田氏の有するところとなった。ただ、この段階までの小松城の状況は不明で、寛永17年(1640年)、加賀藩主前田利常が隠居領の居城として整備したのが、今に伝えられる小松城と城下の実質的な建設であったと考えられる。

 小松城は、梯川の蛇行によって作られた沼地を利用した平城であり川の水を引き入れた堀の中に8個の島が兵法に従って配置されている。城の面積は、金沢城の倍近い約56万㎡に及ぶ広大なものである。

 城地の約30%を堀が占めており、その様は「小松の浮城」とも呼ばれたぐい稀な景観をもつ名城であった。

 表向きは利常の隠居城であるが、外敵に対する防備を堅くした渦郭式といわれる構造である。河川を巧みに利用した反面、水害に対する備えも必要で、盛土の他、随所に堅牢な石垣による護岸を行っていた。

この名城も、幕末にはすでに取り壊しが始まり、明治以降、売却や埋め立てなど土地改良が急速に進められた。現在地は、往時の石垣を唯一実見できる場所である。丸櫓台石垣と北側に隣接している井戸跡が残り、西側の道路に面して堀石垣の一部が現存している。

小松市教育委員会

小松城本丸櫓台石垣


小松市指定文化財

小松城本丸櫓台石垣

 江戸幕府は、寛永16年(1639年)、一国一城令の例外として加賀藩三代藩主前田利常に隠居地として小松で居城を認め、併せて城修築を特に許可した。これにより、従来の城下口は本丸となり、二の丸、三の丸、葭島、琵琶島、中土居などを増築した。石垣は、戸室石のほか、地元の梯川などから切り出した石を用いた。工事は寛永17年(1640年)より工事をはじめたが、利常の19年の在城中には、城内に泉水や茶室を設けるなど、粋がこらされた。

 明治5年(1872年)、小松懲役場が三の丸におかれ、囚人の役務として城のとりこわしが行われた。このため現在、本丸櫓の石垣と井戸が残るだけとなった。本石垣は切込ハギによる工法で四隅は特に精巧をきわめ、周辺沼地の軟弱な立地条件にもかかわらず、櫓台直下は砂州の西端にあり安定した土地であるため、勾配は垂直に近い積み方である。

小松市教育委員会

小松市丸の内公園町に芦城公園がある。

 本公園は、加賀藩三代藩主前田利常が居城として建設された小松城三ノ丸跡地です。明治初期に小松城が取り壊され、跡地が民間へと売り払われてゆく中で小松の人々の中に広場残したいという思いから、明治37年に開園し、明治39年に「芦城公園」と名付けられました。

前田利常翁像


贈從二位前田利常卿

大正5年(1916年)、小松呉服組合創立記念に建立。

昭和41年(1966年)、再建。



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