このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
街 道
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東海道
保土ヶ谷宿
〜本陣跡〜
横浜市保土ヶ谷区保土ヶ谷の国道1号沿いに保土ヶ谷宿「本陣跡」があった。
保土ヶ谷宿「本陣跡」
表札に「軽部」とある。
保土ヶ谷宿は神奈川に次ぐ東海道4番目の宿場。
保土ヶ谷宿までが武蔵国である。
歴史の道
本 陣 跡
慶長6年(1601年)正月、
東海道
の伝馬制度を定めた徳川家康より「伝馬朱印状」が「ほとかや」(保土ヶ谷町)あてに出されたことにより、保土ヶ谷宿が成立しました。
東海道を往来する幕府の役人や参勤交代の大名は、宿場に設置された本陣に宿泊しました。保土ヶ谷宿の本陣は、小田原北条氏の家臣苅部豊前守康則の子孫といわれる苅部家が代々つとめています。同家は、問屋・名主を兼ねるなど、保土ヶ谷宿における最も有力な家で、安政6年(1859年)に横浜が開港する際、当時の当主清兵衛悦甫が総年寄に任ぜられ、初期の横浜町政に尽くしました。明治3年(1870年)に軽部姓に改称し、現在に至っています。
本陣が混雑した際、幕府の役人や参勤交代の大名は脇本陣に宿泊しました。保土ヶ谷には藤屋・水屋・大金子屋の3軒の脇本陣がありました。
平成15年3月 保土ヶ谷区役所
享和元年(1801年)2月27日、大田南畝は江戸を出て保土ヶ谷宿に泊まる。
本町のはしをわたれば、程ヶ谷の宿 つ
(ゞ)
き也
俗に棒鼻といふ
右に円海山道の碑たてり。中の橋をわたり、右がはなる沢瀉屋彦右衛門といへる宿りにつく。酉の時に近し。床に掛し画に夷曲うたあり。
くたびれてやうやう足もおだやかやよい程がやの宿をとりけり
いかなる人にやとおかし。
『改元紀行』
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