このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
街 道
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東海道
島田宿本陣跡
島田市本通に「からくり時計塔」がある。
帯祭りの奴が踊り出すのだそうだ。
島田宿下本陣置塩
(おしお)
藤四郎家跡である。
島田宿本陣跡
本陣とは幕府の高官や公家・大名・旗本・高僧など支配層の人々が休憩・宿泊するために各宿場に設けられた施設です。
はじめは「大名宿」と呼ばれていた各宿場の広い家屋敷を持つ富裕な家を寛永12年(1635年)頃、参勤交代が制度化されると、幕府は「本陣」に指名しました。
島田宿には、西から上本陣村松九郎治家・中本陣大久保新右衛門・下本陣置塩藤四郎家の3軒がありましたが、脇本陣はありませんでした。享和3年(1803年)の「島田宿明細書帳」によると、上本陣は建坪262坪、中本陣は建坪244坪、下本陣は建坪271坪とそれぞれの規模が記されています。
諸大名は、各宿場の本陣を指定し、定宿としていました。本陣へは藩主と側近の一部が泊まり、その他の家臣団、女中、中間などは宿内の旅籠や商家、民家、寺院あるいは農家などにも分散して泊まりました。
参勤交代の行列は、数百人から千人以上にも及び、戦のときの行軍と同じと考えられていたため、大名の泊まる宿を戦場と同じく「本陣」と呼んだと言われています。
島田市教育委員会
島田宿史跡保存会
享和元年(1801年)3月2日、大田南畝は大坂銅座に赴任する旅で、暗くなってから島田宿に着いた。
日もはや暮なんとするに、こよひかならず大井川を徒わたしせんとて、輿かくものゝ足はやし。従者もをくれじもをくれじとはせつきぬ。くらうなりて嶋田の宿につきぬれば、見過せる所多かるべし。
『改元紀行』
朝霧や人声深き大井がわ
(は)
里丸
『
俳諧
五十三駅』
舞坂宿の渡船場
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