このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
私の旅日記
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2007年
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油壷湾
〜白秋文学コース〜
観光船
で油壺へ。
油壷湾
油を流したように静かな入り江である。
油 壺 湾
油壺の名のいわれは、永正13年(1516年)新井城(今の油壺一帯)を最後の居城として立てこもった三浦一族が北条早雲の大軍を相手に、3年間にわたって奮戦しましたが空しくついに全滅し、一族の将三浦道寸義同
(よしあつ)
をはじめその子荒次郎義意
(よしもと)
は、自刃、他の将兵も討死、または油壷湾へ投身したと伝えられ、そのため湾一面が血汐で染まり、まるで油を流したような状態になったので、後世「油壷」といわれるようになりました。
北条五代記には、三浦一族全滅の模様を次のように記しています。
「今も7月11日には毎年雲霧おおいて日の光も定かならず、丑寅の方と未申の方より電
(いなづま)
かがやき出て、両方光入乱れ風猛火を吹き上げ、光のなかに異形異類の物有りて干戈をみたし、虚空に兵馬馳け散り乱れ、天地をひびかし戦う有様おそろしきと言うばかりなり云々」
三浦市
油ではなく、三浦一族の血汐で染まった入り江なのであった。
油壷湾は
白秋
文学コースでもあった。
白秋文学コース
② 油 壷
油壷しんととろりとして深し
しんととろりと底から光り
三浦一族の哀史を秘める油壷、白秋のこの一首からも一族450年の秘話を聴くことができるようです。
大正のはじめ、この先の海岸にある東京大学臨海実験所には海水を汲みあげるための大風車がまわっていました。
夕焼小焼大風車のうへをゆく
雁が一列鵜が三羽
油壷から諸磯見ればまんまるな
赤い夕日がいま落つるとこ
このように油壷には歴史と自然の深いたたずまい、ハイカラさが同居していました。
自由律俳句の
荻原井泉水
も「旅の印象」で、この頃の油壷の風情には詩の空気がこもっているようだと書いています。
白秋の三崎時代の短編「真珠抄」が井泉水の自由律俳句に大きな衝撃を与えることになりますが、共に油壷の水の色から出発して行ったのでした。
三浦市
大正2年(1913年)5月、白秋は松下俊子と結婚。10月、
見桃寺
の一室を借り、妻と二人だけのわび住まいを始める。
田辺大愚の句碑があった。
外海は荒れてゐて月の油壺
横濱中華街
へ。
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