このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
私の旅日記
〜
2010年
〜
太田道灌の墓
〜心敬の句碑〜
伊勢原市上粕屋に太田道灌 の墓があるというので、行ってみた。
太田道灌公の墓
太田道灌
太田道灌
(1432〜1486)は幼名を鶴千代といい、成人してからは資長
(すけなが)
または持資
(もちすけ)
といった。また仏門に帰依してからは、道灌と号した。 道灌が生まれた頃、父資清は相模の粕屋に本拠をおいていたので、道灌は現在の伊勢原市内で生まれたものと思われる。幼い頃から非常に利発で、神童といわれていた。当時の日本は戦国時代で、各地の武将の間に戦が絶えなかった。道灌は25歳の時(1457)、武蔵野の原に、海に臨んで城と町とを築いた。後に、この城は江戸城といい、徳川幕府300年の居城となった。明治以後、町は東京とよばれ、城は皇居となった。これにより道灌は、いまでも東京の基礎を築いた人として、その名が高い。
道灌は築城軍略の大家であるばかりではなく、詩歌を好み、風流を愛する文武兼備の人であった。上洛の折、時の天皇の勅問に和歌をもって答えた逸話や、山吹の説話など有名な話も多い。
晩年、道灌は京都の足利幕府と関東の公方とが、互いに協力して政治を行わなければ平和は望めないと考え、力を尽くした。しかし、主君の上杉定正は、己の権力の増大のみを求めていたため、道灌は怒りにふれ、志半にして粕屋の上杉館で謀殺された。時に54歳であった。
道灌の墓のあるここ洞昌院は、道灌が関東官領上杉憲実の弟道悦和尚のため建てた寺と伝えられている。現在、伊勢原市では、毎年10月の第1土・日曜日に観光道灌祭を行って、偉業を偲んでいる。
昭和57年11月3日
伊勢原ライオンズクラブ
道灌の歌碑があった。
いそがずばぬれざらましを旅人の後より晴るゝ野路のむら雨
太田道灌墓
自害石と呼ばれる。
宝篋印塔
伊勢原市下糟屋の
首塚
に対して胴塚と呼ばれる。
太田道灌と山吹の花
文武両道にすぐれ、人々から兵法の師範と称された道灌は、若年の頃は武略のみを心がけ、文の道はかえりみなかったと伝えられる。 しかし、父の道眞資清は当時和歌の名手として、又、連歌の達者として知られ、馬上に打物取っては並ぶものなき勇者でもあった。 狩りに出た道灌が雨にあい、雨具を借りに立ち寄った賎が家の乙女の差し出した山吹の花の意味が分からず、自ら深く愧じて学問に志した説話は余りにも有名である。関東に生まれ、関東に育った武将の中で、都の文人にも劣らなかった文化人であり、又、江戸の築城に当たっては都市計画の先覚者でもあった道灌の非業の死をいたんで、花が咲いても実とならぬ山吹の花をえらんで、道灌への思慕の情を託したものであろうか。
みやび男の子の道灌さまは花も実もあるあづま武士
土地の人が歌った、道灌追慕の唄である。
洞昌院27代当主 安達久雄
伊勢原中央ロータリークラブ創立10周年記念植樹
昭和63年5月30日
心敬の句碑があった。
雲もなほさだめある世のしぐれ哉
「雲は」が正しいようである。
句碑建立の由来
京都十住心院の心敬僧都は応永13年紀州に生まれ、東福寺の正徹に和歌を学び、当代第一流の連歌師であった。応仁元年の春関東に下向したが、間もなく起った応仁の大乱のため、再び京都の地を踏むことなく関東を流浪し相模大山の麓に幽居し、文明7年4月12日没した。享年70歳。 心敬の文脈はその弟子
宗祇
を経て芭蕉に受け継がれる。生前交遊深かった太田道灌公の暮域にその業績をしのび、五百回忌を記念して句碑を建立した。揮毫は川戸飛鴻氏にお願いし、大津清氏の心からなる協力を得た。
昭和48年4月吉辰
洞昌院現住 大逸 謹誌
私の旅日記
〜
2010年
〜に戻る
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください