このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

新年の旅日記

「北條早雲公」の像〜小田原駅東口〜
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JR東海道本線小田原駅下車。

小田原駅東口に「北條早雲公」の像があった。


北條早雲公略伝

 北條早雲公(伊勢新九郎長氏のち宗瑞、早雲庵。法名・早雲寺殿天岳瑞公)は、戦国時代に相模、武蔵、上総、下総、安房、常陸、上野、下野の関八州のほか伊豆、駿河に勢威を及ぼした北條五代の祖である。

 『北條記』によれば、明応4年(1495年)伊豆韮山から箱根を越えて小田原に進出した時、牛の角にたいまつを結んで大軍の夜襲に見せかけた、いわゆる「火牛の計」の戦法を用いて大森氏を打ち破ったという。その後小田原は、96年間にわたり北條氏の城下町として繁栄し、東国一の都市に発展した。

 終生伊勢姓を名のっていた早雲公の出身地は、京都、あるいは備中、あるいは伊勢ともいわれている。一時、室町幕府に随身していたが、のち駿河へ下って今川氏に身を寄せ、そこで卓抜な才知と果敢な行動力で頭角をあらわし、やがて伊豆、相模の2国を支配する大名になった。そして民政にもよく配慮をしながら、周到な計画性をもって国造り、町づくりをすすめたという。小田原城には嫡男の氏綱公を住まわせ、自身は伊豆にあって背後の守りをかためていたが、永正16年(1519年)8月15日、88才の天寿を全うして韮山に没した。戦国武将としてはめずらしい長寿であった。また北條姓は二代氏綱公から用いられた。

 早雲公は、東国の戦国時代の幕を切って落とした一代の風雲児と評され、一般には乱世を生き抜いた猛々しい武将という印象を与えている。しかし、伝来の北條家の家訓「早雲寺殿二十一ヶ条」において、早雲公は身を慎み、礼を重んじ、質素倹約を旨とすべきことを説き、学問、歌道に親しむことを奨励している。実際は聡明な教養人であり、また公私にわたる日常生活においても、つねに細心の注意を怠らなかった老練な苦労人でもあった。

 菩提寺金湯山 早雲寺 は箱根湯本にあり、当初は早雲公、氏綱公の二代をまつっていたが、その後、氏康公、氏政公、氏直公をも加え、北條五代の霊を合祀している。

北條早雲像建立期成会

「火牛の計」は『史記』(田単列伝)による。

 戦国時代、斉の国の即墨城の将軍田単は千頭余りの牛に赤い布を着せ、刃を角にしばり、尾に油を注いだ葦を束ね、その端に火をつけ真夜中に敵に向けて放つ。壮士5,000人が後に続く。尾を焼かれた牛は怒り狂い、敵軍に突入。触れる物を尽く殺傷し、遂に大勝した。

 寿永2年(1183年)5月11日、 源義仲 は倶利伽羅峠で「火牛の計」を用いて平維盛の平家軍を討ち破ったという。

小田原城 へ。



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